◉ 数理物理学は、数学を物理学の全分野に渉って横断的に役立たせるという目的で研究される分科です。その数理物理学のために書かれた数学的方法の教科書といえば、今も世界中で読み継がれている教科書、クーラン=ヒルベルト『数理物理学の方法』です。今回は、本書とその成立背景、さらに、アヒエゼル/グラズマンの『ヒルベルト空間論』などを紹介します。また、定評あるヒルベルトの評伝、リード『ヒルベルト』も併せて紹介しましょう。
物理学を公理論的方法で再構築するというヒルベルトの夢がついえたのち、弟子のクーラントは数理物理学を基礎づける数学的方法の教科書を世に問うた。
1.数理物理学の眺望
▼ クーラン=ヒルベルト『物理数学の方法 1』、東京図書(1984;新装版)
▼ クーラン=ヒルベルト『物理数学の方法 2』、東京図書(1984;新装版)
▼ クーラン=ヒルベルト『物理数学の方法 3』、東京図書(1984;新装版)
▼ クーラン=ヒルベルト『物理数学の方法 4』、東京図書(1986;新装版)
古くは、実験物理学に対して、理論物理学を数理物理学とよんでいた時期がありました。そののち、数学は物理学の研究手段であり表現手段であるのは当然、という認識が広まって、逆に、数学を物理学の全分野に渉って横断的に役立たせる、という明確な目的をもって研究する分科を、数理物理学とよぶことになったようです(宮原将平『現代物理学』、青木書店(1957))。この “数理物理学のための数学的方法の教科書” の古典といえば、何といっても、クーラン=ヒルベルト『数理物理学の方法』で、この旧訳版は、国立国会図書館の個人送信サービスで閲覧できます。今回は、このクーラン=ヒルベルト『数理物理学の方法』全4冊を中心に取り上げます。
クーラン=ヒルベルト『物理数学の方法』というと、何と言っても偏微分方程式論の古典というイメージが強く、日本では、寺沢寛一編『自然科学者のための数学概論 応用編』などとよく比較されます。後者は「てらかんの応用編」などと呼ばれていて、その基礎編である寺沢寛一著『自然科学者のための数学概論』とともに、重宝していました。『応用編』は、ディラックのデルタ関数を使ったシュバルツ風の偏微分方程式論を含みますが、ルベーグ積分必須の関数解析ベースの偏微分方程式論ではないので、初心者でも安心です。一方のクーラン=ヒルベルトは、ヒルベルトが乗り移ったクーラントの語り口で終始一貫していて、定式化の意味や位置づけが要所要所で示され、導入部分の丁寧さと緻密な構成とが相俟って、推理小説を読むような魅力があります。もちろん、『物理数学の方法 4』の境界値問題の解の存在を扱った章などは険しいところも、多々あります。
原著はドイツ語で書かれた2巻本で、
▼ R. Courant und D. Hilbert『Methoden der Mathematischen Physik Erster Band』(1931、第1巻)
▼ R. Courant und D. Hilbert『Methoden der Mathematischen Physik Zweiter Band』(1937、第2巻)
というもの。第1巻の初出は1924年ですが、1931年に改定第2版がでました。国立国会図書館(NDL)の個人送信サービスで読める邦訳は斉藤利弥監訳で、東京図書から出版されて、各巻を2冊に分けて4冊本としています。初版は、巻毎にそれぞれ1959年、1959年,1962年、1968年です。1984年に新装版が出版されていて、NDLで読めるのは、こちらの新装版です。私、探訪堂は、友人から英訳本を薦められるものの、価格が安いという理由でドイツ語版を購入。辞書を左手に抱えての格闘でしたが、それも遠い昔の話し。今では、主部と述部を見分けるのがやっとという情けない状況です。ところで、この邦訳をネット越しに読めるという時代が来たわけで、NDLの個人送信サービスは本当にありがたいものです。
1-1 ヒルベルトとクーラント
著者、ダヴィド・ヒルベルト(1862-1943)は公理主義的方法論で数学を作り替え(ヒルベルト・プログラム)、1900年8月8日の国際数学者会議とそれ以降に出版された著作において「数学の諸問題」(ヒルベルト問題)を発表して20世紀数学が向かうべき方向を指し示した偉大なる “現代数学の父” です。一方のリヒャルト・クーラント(1888-1972)はゲッチンゲン大学でヒルベルトの助手を務め、後に、ヒトラーのナチス・ドイツを離れてニューヨーク大学に移り、数理科学研究所の設立に尽力した人で、実解析、変分法、偏微分方程式論、そして数理物理学の研究者です。ドイツには珍しいタイプの研究者・指導者だったらしく、つぎのような話しが伝えられています。
小柄で地の精のような顔の、声音のやわらかな彼は、どう見ても「神々の一人」のようには見えなかった。それどころか、彼の学生たちが記憶しているクーラントは「まったくたよりなく、事を決めかねている姿をかくそうとせず、時にはほとんど聞き取れない声で不平を鳴らし、時として人の事にせっかいをやき、或いは介入することなしに指導し、そして最後には彼の周囲のすべての人々から好かれ、尊敬されるようになった」人物であった。 (C・リード『ヒルベルト:現代数学の巨峰』、岩波書店(1972)、p.298より)
1-2 本書の成立と数理物理学
本書は、クーラントが書いた原稿を、“校正祭り” と称して、長テーブルに集まった助手たちや協力者たちと共に、ワイワイがやがやと議論をして校正したのち、表紙に彼の名とともにヒルベルトの名を刻んだというもの。クーラントはヒルベルトにこの本を捧げたのですが、まさに、全ページに渉ってヒルベルトの思想が息づいている、と評されます。ある時期、ヒルベルトは自身の “ヒルベルト・プログラム” にしたがって、物理学を公理論的に再構築しようとしていたようです。物理学者は数学的整合性に無頓着なまま、直感的な飛躍によって深遠な物理概念に到達することがあり、こういったやりかたが、あくまでも厳格さを貫くヒルベルトには我慢できなかったようです。ところが、ヘルマン・ワイル(1885-1955)の『空間・時間・物質』(原著は1922年に出版)を見て驚いたのか、自身は物理学から離れていきました。そのワイルは
物理学者が考えに入れなければならない実験的事実のなす迷宮はあまりにも多様であり、しかもそれはあまりにも早く拡大し、その様相と、相互の比重は変り動き、公理論的方法にとってかろうじて足場を持ち得る物理学の分野は、すでに整理しつくされたようなのもを除いてはあり得ない。アインシュタインとかニールス・ボーアのような人々は闇の中を手探りして一般相対性理論とか原子構造の概念にたどりついたのであり、そこで数学が不可欠のものとしてあったことは疑いもないが、彼らをそこに至らしめた経験と想像力とは数学者のそれとは異なったものであった。 (C・リード『ヒルベルト:現代数学の巨峰』、岩波書店(1972)、p.298より)
という言葉を残しています。
数理物理学は、物理学で確立された原理、法則等から、数学的な表現と数理的な結果を導くことを主眼とします。一方の理論物理学は、経験的事実や実験的事実から帰納的に物理理論を確立し、あるいは演繹的に物理理論を検証することを主眼とするものと考えてよく、数理物理学は数学寄りの物理学であって、応用数学でも物理数学でもないのです。それとは別に、当時、物理学の研究をするために数学を学ぶ際、適当な教科書が見当たらず、結局、物理学者の書いた物理学の教科書を参照せざるを得なかったという事情もあり、数理物理学のための数学的方法の教科書としての本書、クーラン=ヒルベルト『物理数学の方法』は大当たり、さらに、名著として今でも全世界で読み継がれてます(多くの論文で標準的な教科書として、今でも引用されています)。ひょっとすると、本書は、「物理学者には物理学は難しすぎる」というヒルベルトの有名な言葉に対するクーラントの答えなのかもしれません。
2.国立国会図書館/個人送信サービスから《1》
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2-1 『数理物理学の方法 1』(1984)
▼ R. クーラン=D. ヒルベルト『数理物理学の方法 1』、東京図書(1984)、pp.230
原著第一巻の第1分冊目。第1版の序文でクーラントは
私の尊敬する先生であり、同僚であり、また友人でもあるヒルベルトの名を著者として印刷する事を主張したのは、ヒルベルトの論文や講義からの素材がこの中でしばしば用いられていることを顧慮しただけではない。私が何にもまして強調したいのは、ここにあらわれている科学的および教育的な努力は、永久にヒルベルトの名前と切り離すことに出来ない数学的精神によって生み出されたものだということである。
と述べています。第1章は線形代数の話題。行列のノイマン級数から直交変換・ユニタリー変換に進みます。行列ノルムの話題が含まれます。第2章は関数空間の話題。ディニの定理から集積定理(アスコリ=アルツェラの収束定理)を準備して、フーリエ級数、フーリエ積分などに進みます。第3章は線形積分方程式の話題。“一見関係のない多くの問題が統一的な観点からとり扱える” という、ありがたい導きの言葉通りの展開が待ってます。その積分方程式が線形連立方程式に対するクラーメル法の延長で解けてしまう。数理システム論界隈で使われるボルテラ汎関数級数法の基礎の基礎ですね。第4章は変分法の話題。変分法で解ける問題の数々が例示されたあと、前3章までの技法での解き方が伝授されます。その後、第1変分とオイラー方程式、第2変分とルジャンドル条件、汎関数微分(関数空間の勾配ベクトル)と一般論が展開され、最後に物理学の様々な例題を議論します。
原書者の序文/監訳者のことば
第1章 1次変換と2次形式の代数
1次方程式と1次変換/パラメータを1次に含む1次変換/2次形式およびエルミート形式の主軸変換/固有値の最小-最大性/第1章の補足および問題
第2章 任意函数の級数展開
直交函数系/函数の集積原理/独立度と次元数/ワイエルシュトラスの近似定理.ベキ函数および三角函数の完全性/フーリエ級数/フーリエ積分/フーリエ積分の例/ルジャンドルの多項式/直交系の他の例/第2章の補足と問題
第3章 線形積分方程式論
予備的考察/退化した核に対するフレドホルムの定理/任意の核に対するフレドホルムの定理/対称核とその固有値/展開定理およびその応用/ノイマン級数および逆核/フレドホルムの公式/理論の新しい基礎づけ/理論の成立限界の拡張/第3章の補足と問題
第4章 変分法の基本事項
変分法の問題/直接的解法/変分法におけるオイラーの方程式/オイラーの微分方程式の積分についての注意とその例/境界条件/第二変分とルジャンドルの条件/附帯条件のある変分問題/オイラーの微分方程式の不変性/変分問題の標準形および包合形への変換/変分問題と数理物理学の微分方程式/第4章の補足と問題
文献/索引
R. クーラン=D. ヒルベルト『数理物理学の方法 1』(1984)
2-2 『数理物理学の方法 2』(1984)
▼ R. クーラン=D. ヒルベルト『数理物理学の方法 2』、東京図書(1984)、pp.242
原著第一巻の第2分冊目。第5章は棒や膜、板の振動の話題。2階の線形偏微分方程式の代表である波動方程式を、その固有値問題と共に精密に議論します。線形方程式の境界値問題は積分方程式に変換でき、その積分核はグリーン関数ともよばれます。その積分方程式を経由して積分作用素の固有値問題が出現、その様々な取扱いが伝授されます。第6章は変分法と固有値問題の話題。第7章はベッセル函数、ルジャンドル函数、ラプラスの一般球函数の詳細を議論します。
原著者の序文
監訳者のことば
第5章 数理物理学における振動の問題と固有値問題
線形分方程式についての若干の注意/有限の自由度をもつ系/弦の振動/枠の振動/膜の振動/板の振動/固有函数の方法についての一般的事項/3次元連続体の振動/ポテンシャル論の境界値問題と固有函数/スツルム=リューヴィル型の問題.特異境界点/スツルム=リューヴィル型微分方程式の解の漸近的行動/連続スペクトルをもつ固有値問題/摂動法/グリーン函数.微分方程式と積分方程式/グリーン函数の例/第5章の補足
第6章固有値問題への変分法の応用
固有値の極値性/極値としての固有値の性質から導かれる一般的結論/完全性定理と展開定理/固有値の漸近的分布/シュレーディンガー型の固有値問題/固有函数の節/第6章の補足と問題
第7章 固有値問題によって定義される函数
2階線形微分方程式についての若干の注意/ベッセル函数/ルジャンドルの球函数/ルジャンドル、チェビシェフ、エルミート、ラゲールの微分方程式と積分変換/ルジャンドルの球函数/ラプラースの球函数/漸近展開
参考文献/索引
R. クーラン=D. ヒルベルト『数理物理学の方法 2』(1984)
2-3 『数理物理学の方法 3』(1984)
▼ R. クーラン=D. ヒルベルト『数理物理学の方法 3』、東京図書(1984)、pp.220
原著第二巻の第1分冊目。原著第二巻は第一巻とは完全に独立していて、物理学の諸概念と関係のある偏微分方程式の理論を扱っています。第1章で解の幾何学的表現などの用語や概念を準備したのち、第2章では、1階の準線形偏微分方程式の一般論が展開されます。解析力学との関係では、ここで述べられるハミルトン-ヤコビの理論は欠かせません。第3章は高階の線形微分方程式論が議論されます。楕円型、双曲型、放物型という2階の線形方程式に関連する豊富な例題の検討があります。
序文
第1章基本概念
解の集合についての概観/連立分方程式/特別な分方程式の積分法/二つの独立変数をもった!階の偏分方程式の幾何学的な意味.完全積分/1階の線形および準線形分方程式の理論/ルジャンドル交換/初期条件による解の決定と存在定理
第1章の附録
極小曲面の支持函数に対する微分方程式/1階の連立分方程式と高階の微分方程式/二つの1階立信微分方程式と2階の微分方程式/面積を変えない写像の表現
第2章 1階の偏微分方程式の一般論
二つの独立変数の準線型微分方程式/n変数の準線形微分方程式/二つの独立変数の一般的な微分方程式/完全積分の理論との関係/焦曲線とモンジュの方程式/例/n変数の一般の微分方程式/完全積分とハミルトンーヤコビの理論/ハミルトンの理論と変分法/正準変換とその応用
第2章への追加
特性多様体の新しい議論/同じ主部をもった準線形連立微分方程式.特性曲線論の新しい導き方
第3章 高階線形徹分方程式の一般論
二つの独立変数をもった2階線形式の標準形/準線形分方程式の標準形/多変数の場合の2階線形分方程式の分類/高階の微分方程式および連立分方程式/定数係数の線形微分方程式/初期値問題・輻射問題/数理物理学の典的な微分方程式の問題
第3章への追加
過渡現象と分表示による解/ヘビサイドの作用子法/過渡現象の問題の一般的な理論
参考文献/索引
R. クーラン=D. ヒルベルト『数理物理学の方法 3』(1984)
2-4 『数理物理学の方法 4』(1984)
▼ R. クーラン=D. ヒルベルト『数理物理学の方法 4』、東京図書(1984)、pp.334
原著第二巻の第2分冊目。第4章はポテンシャル論を中心とする楕円型の微分方程式論、第5章と第6章は双曲型の微分方程式論です。解の不連続性の話し(特性多様体)とか不連続性の伝播の話しが秀逸です。シュバルツの超函数のの理論の一歩手前に位置するアダマールの方法も登場します。第7章は楕円型方程式の境界値問題、固有値問題の可解性の証明を変分法を使って行うという趣旨。その後の偏微分方程式論に一石を投じた当時の話題作です。
序文
第4章 楕円型微分方程式、とくにポテンシャル論
基礎/ポアソン積分とその結果/平均値定理とその応用/境界値問題/一般な楕円型微分方程式に対する境界値問題:解の一意性/楕円型微分方程式を解く積分方程式法/第4章への追加
第5章 2変数の双曲型微分方程式
準線形徴分方程式の特性曲線/一般の微分方程式の問題に対する特性曲線/一意性と依存領域/リーマンの積分法/ピカールの反復法による微分方程式 \( u_{xy}=f(x,y,u,u_x,u_y) \) の解/1階立方程式への一般化と応用/一般の2階準線形方程式/一般の方程式 F(x,y,u,p,q,r,s,t)=0
第5章への追加
複素数の導入.複素変数による双曲型から楕円型への移行/楕円型の場合における解の解析性/2変数の場合の特性理論に対する注意/モンジュ-アンベールの方程式の特殊性
第6章 変数の数が2より多い双曲型微分方程式
特性方程式/解の不連続性面としての特性多様体.波面/高階の問題における特性概念/初期値問題における一意性定理と依存領域/定数係数の2階双曲型線形分方程式/平均値法.波動方程式とダルブーの方程式/超双曲型微分方程式と定数係数の2階の一般微分方程式/双曲型でない初期値問題に関する考察/初期値問題を解くアダマールの方法/波の概念に関する注意と輻射問題
第6章への追加
結晶光学の微分方程式/高階の問題における依存領域/広義のホイヘンスの原理と接続可能な初期条件/積分関係式による微分方程式のおきかえ.特性概念の拡張
第7章 変分法による境界値問題と固有値問題の解
予備的注意/第一種境界値問題/境界値が0となるときの固有値問題/2つの独立変数の場合の境界値/極限函数のつくり方と積分 E,D,H の収束/第二種と第三種の境界条件.境界値問題/第二種と第三種境界条件の場合における固有値問題/第二種と第三種境界条件のさい基礎となる領域についての論議/補遣と課題/プラトーの問題
文献/索引/あとがき
R. クーラン=D. ヒルベルト『数理物理学の方法 4』(1984)
3.国立国会図書館/個人送信サービスから《2》
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3-1 C.リード『ヒルベルト: 現代数学の巨峰』(1972)
▼ C. リード『ヒルベルト: 現代数学の巨峰』、岩波書店(1972)、pp.416+93
上の本文でも引用したヒルベルトの評伝の決定版です。著者、コンスタンス・リード(1918-2010)は、D. ヒルベルトやR. クーラント、J. ネイマンや E.T. ベルなどの数学者の伝記を手がけた作家。妹はヒルベルトの第10問題やゲーム理論のジュリア・ロビンソン(1919-1985)。リード自身は数学者ではありませんが、数学に対する鋭い感覚を持ち合わせている一方、“獲物” をとことん追いつめる凄まじい取材力を持ちます。ベルの伝記、妹ジュリアの伝記は戦慄的。ところで、本書の「まえがき」で、R. クーラントは、ヒルベルトの伝記は、巨人だけに、到底ひとりの人間では成し得ない、としたあと、
そのようなわけで、本書に関するリード夫人の計画を聞いたとき、私には数学に関する徹底した理解を持つことなしに読むに値する伝記が書かれ得るか否か極めて疑問に思った。しかし、この懸念は、本書の草稿を読むにつれて消え去り、著者が成し遂げ得たものについての感嘆の念が高まりゆくのであった。
と述べています。作家としての限界を感じていたころ、ふと旅したゲッチンゲンで、ヒルベルトをよく知る人々が生きているうちに何とかしなくてはと感じ、多くの関係者に取材を重ねてでき上がったのが本書。巻末には、ヘルマン・ワイルによる「ダヴィド・ヒルベルトとその数学的業績」という82ページの専門的な解説が添えられています。
岩波基礎数学選書各巻の冒頭「刊行にあたって: 数学的現象の把握を」で、小平邦彦は
現代の数学は形式主義の影響を強くうけていて、数学の本にも、定義、公理、定理、証明を羅列した形式で書かれたものが多い。 (中略) 公理的構成の規範となったHilbertの幾何学基礎論では、‘点’、‘直線’、等は意味のない無定義語、すなわち記号であって、‘猫’、‘雀’、等で置き換えても一向差し支えないことになっているが、これは事実に反する。
と述べ,「私の見る所では、数学は実在する数学的現象を記述しているのであって、数学を理解するということは、究極において、その記述する数学的現象のイメージを言わば感覚的に把握し、形式主義では捕捉できない数学の意味を理解することである」という印象的な言葉を残しています。たしかに、日常感覚から離れた、全く理解不能な数学書も散見される時代のなかでの、行き過ぎた形式主義への戒めなのでしょうか。このヒルベルトの公理系、ユークリッドの体系の曖昧さに対抗し、数学の公理系に、完全性、独立性、無矛盾性という三つの論理学的要請を課すものですが、直観主義を信奉する場合であっても、これらのヒルベルトの要請に応える必要はあるわけです。本書にはその辺りの当時の状況も語られています。ところで、小平の引用にある「等」の中身は、実際に何であったかという疑問、これについて、ヒルベルトが「幾何学基礎論」に関連して言った言葉として、
それらが点、直線、平面と呼ばれようと、テーブル、椅子、ビール・ジョッキと呼ばれようとそうした呼び方には関係なく、それらが何であるかということは、公理によって表現されたそれらが充たすべき関係によってのみ決まるとうことである。(本書、p.114)
という情報が得られました。「猫、雀、等」の替わりに、テーブル、椅子、ビール・ジョッキなんですね。
日本語版のための序文(コンスタンス・リード)/訳者まえがき(彌永健一)/まえがき(リヒャルト・クーラント)/序(コンスタンス・リード)/謝辞
1 青年時代
2 友人たち・教師たち
3 Ph.D
4 パリ
5 ゴルダンの問題
6 変貌
7 数論、ただそれのみ
8 テーブル、椅子それにビール・ジョッキ
9 諸問題
10 数学の将来
11 新世紀
12 第二の青春
13 熱情的な科学者生活
14 空間、時間そして数
15 友人たち、学生たち
16 物理学
17 戦争
18 数学の基礎
19 新体制
20 無限!
21 借りられた時間
22 論理学と自然認識
23 エクソダス
24 老齢
25 結語
訳注/ダヴィド・ヒルベルトとその数学的業績(ヘルマン・ワイル)/人名索引
C. リード『ヒルベルト: 現代数学の巨峰』、岩波書店(1972)
3-2 アヒエゼル、グラズマン『ヒルベルト空間論 上』(1972)
ヒルベルトは積分方程式を解くにあたって、連続関数の全体が成す空間(非可算無限次元)のかわりに,可算無限次元の線形空間を考えて各元に “有限の長さ” の概念を導入しましたが、これがヒルベルト空間の原形とされます。まさに、コロンブスの卵。こんな簡単な仕方でも大丈夫、という驚愕の事実が証されたのです。ヒルベルト空間論は、短期間に多くの研究者が参入して急激に発展、特にヒルベルト空間のスペクトル理論が量子力学の理論的な基礎構造を与えることが発見されてからは、理論体系が見直されて洗練された形式に整備されていきます。“洗練され過ぎ” で、初心者には手強いものになってしまいましたが。
▼ アヒエゼル/グラズマン『ヒルベルト空間論 上』、共立出版(1972)、pp.322
▼ アヒエゼル/グラズマン『ヒルベルト空間論 下』、共立出版(1972)、pp.248
本書は、世界的に評価されているヒルベルト空間論の古典的な教科書です。原著はロシア語ですが、Dover から英訳本
- N.I. Akhiezer, I.M. Grazman『Theory of Linear Operators in Hilbert Space』、Dover
が出ています。読み解く上での諸注意を含めて、下巻の「訳者あとがき」を参照しましょう。
初版の序/第2版の序/推薦の序
第1章 ヒルベルト空間
線形空間/線形多様体/スカラー積/いくつかの位相的な概念/ヒルベルト空間/1点と凸集合との距離/部分空間へのベクトルの射影/ベクトル列の直交化法/ベッセルの不等式と閉等式/Hにおける直交系の完全性/空間 ( L^2 )/( L^2 ) における完全正規直交系/H におけるベクトルの双直交系/空間 ( L^2_\sigma )/概周期関数の空間/空間の基底について
第2章 線関数と有界な形作用素
点関数/線形汎関数/リースの定理/ベクトルの系がHで閉じているための条件/凸汎関数に関する一つの補題/有界な線形作用素/双線形汎関数/双線形汎関数の一般形/共役作用素/弱取束/コンパクト性/作用素の有界性の一つの判定条件/可分な空間における線形作用素/完全連続作用素/絶対ノルム/ヒルベルト-シュミットの作用素/有界な線形作用素の収束列/可分なヒルベルト空間における有界な線形作用素の族
第3章 射影作用素とユニタリ作用素
射影作用素の定義/射影作用素の性質/射影作用素の間の演算/射影作用素の列/二つの線形多様体のひらき/ユニタリ作用素/等長作用素/フーリエ-プランシュレルの作用素
第4章 線形作用素論の諸概念と諸定理
閉作用素/共役作用素の一般的な定義/固有ベクトル、不変部分空間および線形作用素の可約性/対称作用素/等長作用素とユニタリ作用素(再論)/スペクトル/レゾルベント/共役的作用素/グラフ/射影作用素の概念の一般化/有界でない対称作用素の行列表現/独立変数をかける作用素/微分作用素
第5 完全連続作用素のスペクトル解析
二つの補助的な命題/Rにおける完全連続作用素の固有値/完全連続作用の性質(続き)/線形関数方程式論におけるリースの理論/完全連統な自己共役作用素の固有ベクトルの存在定理/Rにおける完全連続な自己共役作用素のスペクトル/完全連続な正規作用素/概周期関数論への応用/任意の完全連続作用素を1次元作用素の級数に展開すること/Hにおける完全連続作用素に対する不変部分空間の存在定理/核型作用素
第6章 ユニタリ作用素と自己共役作用素のスペクトル解析
単位の分解/三角法のモーメントの問題/半平面の中の値をとる解析関数/ボホナー-ヒンチンの定理/ユニタリ作用素のスペクトル分解/作用素のスティルチェス積分/ユニタリ作用素系の積分表示/自己共役作用素のレゾルベントの積分表示/自己共役作用素のスペクトル分解/可分な空間における作用素測度0の集合について/ユニタリ作用素の関数/ユニタリ作用素のスペクトル分解の直接証明/ケーリー変換/可換な作用素系について/有界な正規作用素のスペクトル分解/自己共役作用素とユニタリ作用素のスペクトル/単純なスペクトル/スペクトル型について/スペクトルの重複度/重複度有限のスペクトルをもつ自己共役作用素の標準形/自己共役作用素のユニタリ不変量について/自己共役作用素の関数の一般的な定義/いくつかの例/有界な自己共役作用素のつくる環/自己共役作用素の関数の特性/生成作用素に関する定理
索引/人名索引
アヒエゼル/グラズマン『ヒルベルト空間論 上』、共立出版(1972)
3-3 アヒエゼル、グラズマン『ヒルベルト空間論 下』(1972)
日本語版への序
第7章 自己共役作用素のスペクトルと摂動
自己共役作用素の連続スペクトル/完全連続作用による摂動に関するワイルとフォンノイマンの定理/スペクトルの絶対連続な部分と特異な部分/有限次元の摂動によるスペクトルの絶対連続な部分の不変性/波動作用素の定義と形式的性質/有限元の摂動に対する波動作用素の存在/核型の摂動について
第8章 対称作用素の拡張の理論
不足指数/ケーリー変換再論/フォンノイマンの公式/単純な対称作用素/極大な作用素の構造/対称作用素の自己共役な拡張のスペクトル/対称作用素の自己共役な拡張のレゾルベントに関するクレインの公式/半有界作用素の自己夫役な拡張/Hで稠密でない定義城をもつ有界な対称作用素のノルムを変えない自己共役な拡張/半有界な対称作用素の下限を変えない自己共役な拡張
第9章 対称作用素の広義の拡張と広義のスペクトル関数
広義の単位の分解とナイマルクの定理/空間の拡張による対称作用素の自己共役な拡張とスペクトル関数/対称作用素のスペクトル関数と広義のレゾルベント/広義のレゾルベントに関するクレインの公式/対称作用素の準自己共役な拡張と特性関数/ある種の非自己共役作用素の三角型分解
補章I 積分作用素
定義と補助定理/例/カーレマンの積分作用素のスペクトル関数/カーレマンの核のスペクトル表現/ヒルベルトーシュミットの定理の一般化/カーレマンの積分作用素の特性/フォンノイマンの定理
補章II 微分作用素
自己共役な微分演算子/正常な微分作用素/正常な微分作用素の自己共役な拡張/特異な微分作用素/特異な微分作用素の自己共役な拡張/自己共役な拡張のレゾルベント/2階の微分作用素に関する反転公式/任意階数の微分作用素の場合への一般化/切分法による微分作用素のスペクトルの研究/いくつかの例
訳者注/訳者あとがき/総索引/人名一覧
アヒエゼル/グラズマン『ヒルベルト空間論 下』、共立出版(1972)
5.書斎の本棚/図書館の書棚から
このコーナーでは、本文に登場した本、関連書籍をさらに紹介します。
5-1 クーラント=ヒルベルト『数理物理学の方法 上下』
NDL個人送信サービスには登録されていない関連文献の紹介です。まずは、クーラン=ヒルベルト『数理物理学の方法』の第4版から。
クーラン=ヒルベルトの『数理物理学の方法』の原著第4版
■ R. Courant、D. Hilbert『Methoden der mathematischen Physik, Vierte Auflage』、Springer-Verlag(1993)、pp.564
は、内容的に独立した二巻構成であったものを一巻にまとめたものです。それまでの第一巻に第二巻の最終章だけを組み込んだ形式のようです(東京図書版の1分冊目と2分冊目と第4分冊の最終章)。Courantも、それまでのフランス読みから英語読み、クーラントに変更され、丸善の「シュプリンガー数学クラシックス」として2013年に出版されています。Peter Lax による第4版の序文がついています。これはシュプリンガーのホームページで読むことができます(ドイツ語)。ただし、ラックスの序文からは、第4版の成立経緯などの詳細は得られませんでした。丸善の邦訳版は上下巻の2分冊です。
■ クーラント/ヒルベルト『数理物理学の方法 上』、数学クラシックス26、丸善(2013)、pp.324
■ クーラント/ヒルベルト『数理物理学の方法 下』、数学クラシックス27、丸善(2019)、pp.402
目次の詳細は、丸善のホームページから参照できます(丸善HP:上、丸善HP:下)。
5-2 寺沢寛一『自然科学者のための数学概論 増訂版』
■ 寺沢寛一『自然科学者のための数学概論 増訂版』、岩波書店(1985)、pp.711
寺沢寛一(1882-1969)は理論物理学者で、あの寺田寅彦(1878-1935)と同世代です。寺沢といえば、何と言っても、東京帝大理学部航空物理学教室でしょうか。山内恭彦(1902-1986)、今井功(1914-2004)、伏見康治(1909-2008)など、錚々たる弟子を育てました。この名著、読み進むごとに成長できるような気配りが行き届いています。
5-3 金子晃『偏微分方程式入門』
■ 金子晃『偏微分方程式入門』、東京大学出版会(1998)、pp.346
著者は、『線形代数講義』、『数理基礎論講義』、『微分方程式講義』、『関数論講義』など、多くの教科書を世に送りだしている偏微分方程式論の研究者。定評のあるこの教科書、著者によるサポートページもあります。