◉ ノーバート・ウィーナーの『サイバネティクス』(1948)は欧州各国の科学技術政策に多大な影響を与えましたが、日本においても、戦後発足したばかりの日本學術會議が動き、「境界領域の問題討論會」を上野の学士院で1952年10月に開催、その議事録が、みすず書房「現代科學叢書」の記念すべき第一巻『サイバネティックス』として出版されることになります。本稿では、この講演討論會でどのような出席者が何を議論したのかを、北川敏男編『サイバネティックス』から読み解きます。なお、1953年9月の第2回討論會の議事録『續サイバネティックス』に関する続報もご期待ください。
制御/通信/数學の結合による新しい創造的科學を提唱したウィーナー『サイバネティクス』の出版を受け、日本學術會議が動く。學術會議第4部會副部長はあの寺田門下の藤岡由夫。この議事録から、日本の数学者、物理学者、生理學者、工學者がサイバネティクスと如何に対峙していったのかを紐解く
《国立国会図書館/個人送信サービス(無料)を利用して手元端末(PC/タブレット推奨)で閲覧するためには、「個人の登録利用者」の本登録が必要です。詳細は当サイトの記事「国立国会図書館の個人向けデジタル化資料送信サービスについて」をご覧下さい。》
■ 北川敏男編『サイバネティックス : 境界領域としての考察』、みすず書房現代科學叢書 1(1953/5)、pp.106
■ 北川敏男編『サイバネティックス : 境界領域としての考察』、みすず書房現代科學叢書 1(1953/5)、pp.106
目次
1.物語のはじまり
デカルトの時代、アリストテレスの思想と決別して、近代の厳密自然科学がその歩みを開始します。その結果 “現象のなかに何らかの「目的」をみる” ことは御法度となり、因果的な説明のみが「科学的」とみなされる事態となって、「キリンの首はなぜ長い」など、数々の難問を生み出します。そのデカルトは動物を機械と断定した一方で、「心身二元論」によって、人間の「精神」を「身体」から切り離しました。
註:アリストテレス思想、たとえば、物体が落下するのは、物体が下に落ちるという目的をもって存在するからだ、という考え方ですね。
1-1 ローゼンブリュートとウィーナーの学際研究
1910年代の終わり頃、第1次世界大戦に数学者として駆り出されたノーバート・ウィナー(1894-1964)は大砲の射程表の設計に従事します。除隊後、M.I.T.(マサチューセッツ工科大学)に職を得たウィーナーは、同僚ヘンリー・フィリップスに感化されて、統計力学のジョサイア・ウィラード・ギブス(1839-1903)の研究の重要性に目覚め、ニュートン・ラプラスの決定性原理に疑問を抱きます。すなわち、ニュートン的な世界認識について、
ある一瞬における宇宙についての完全な知識は、宇宙の全歴史の完全な知識を含むとされる。 (中略) 残念ながら、われわれの限られた測定器具によっては現在についての完全な知識は得られないのであり、物理学者の当面の問題は得られた限りの不完全な知識をどこまで活用できるかを究明することである。このためにはただ一つの固定した宇宙ではなく、おのおの前もって定められた確率を持つ多くの異なる宇宙を同時に扱わなければならない(ウィーナー『私は数学者(邦訳:サイバネティックスはいかにして生まれたか)』より引用)。
と考え、ギブスが「その当面の問題の最終的にして明確な定式化を狙った」ことを指摘します。同時にギブスの理論の重大な技術的欠陥は、ルベーグ積分論によって完全に克服できることを見抜きます。それ以後、ウィーナーは、我々自身を観測者とみなし、測定された値からこの世界を如何に理解するかを追求し始めます。どうやら、ウィーナーの確率システム論は、たとえば、ニュートン力学で計算された確定的な軌道が、測定ノイズによって確率変動して観測されるという単純な見方では済まないようです。そして、この思想は、その後のサイバネティックス的な世界像の構築に決定的な影響を与えます。
≫ 【書評記事】第1話 渡辺慧『生命と自由』、《4-1》因果律、科学的因果性、相補性原理、不確定性原理
1930年代にはいり、量子力学的スケールの世界における不確定性原理が確立して、ニュートン・ラプラス的な因果律に基づく決定論に小さな疑問符がつき、また、量子力学の大家、ニールス・ボーアらを遠因とする分子生物学的機械論の建設が始まります。そして、宇宙論のエディントン卿をはじめとする多くの物理学者が心身二元論を巡っての自説を、講演や書籍の形で発表しました。そんな激動の1930年代初頭、『からだの知恵』の著者でハーバード大学の脳生理学者ウォルター・B・キャノン(1871-1945)の右腕、アルトゥーロ・ローゼンブリュート博士(1900-1970)と、新進気鋭の数学者、ウィーナーが数学的な通信理論を生理学の手法とするための研究を開始します。
1940年代初頭、戦時研究のテーマを対空砲の射撃指揮制御装置に見いだしたウィーナーは、エンジニアのジュリアン・ビゲロー(1913-2003)と組んで、爆撃機の航路予測装置と射撃制御装置の設計に着手します。ところが、トータルシステムとしての性能向上のためには、それを操るオペレータの特性理解が欠かせないことに気づきます。そして、オペレータを含めた人間=機械系に、自動制御工学の概念「ネガティブ・フィードバック」特有の発振現象が見られることを確認して、ローゼンブリュート博士に脳生理学的な見解を求めます。検討の結果、機械としての人体には、価値体系を生み出す能力、すなわち「目的」を生み出す能力はないものの、外部から与えられた「目標」に向かう、あるいは、「目標」に追従するメカニズムが備わっていることを確信し、3名の連名論文として発表します。今では当たり前となった、目的論的機械論(テレオロジカル・メカニズム)の成立です。
因果律の帰結としての「結果」(出力)を、その発端としての「原因」(入力)にフィードバックすることで、近代厳密自然科学が要請する因果律を破ることなく “「目標」を機械に直接、組み込む” ことが可能となるのです(循環的因果システム)。
さらに、計量経済学、気象学、動態社会学、生物測定学、脳科学(“大脳気象学” と称していた)などの「半精密科学」においては、化学熱力学、統計力学の大家、ギブスに端を発する確率統計解析の手法が不可欠であること、それを考慮すれば制御工学のフィードバックシステムの概念を半精密科学の検討対象にも適用できることを構想、また、現実問題への活用のための情報と通信の理論の整備を進めます。
1-2 メイシー会議と『サイバネティックス』の出版
戦後、ローゼンブリュートとウィーナーは、ウィーナーが戦時研究を共にしたエンジニアのジュリアン・ビゲロー、“マカロック・ピッツの形式ニューロンモデル” で有名な奇才、ウォレン・マカロックと合流し、メイシー財団の援助を受けて、数学者、物理学者、工学者、神経生理学者、精神神経医学者、心理学者、数理生物学者、社会学者、哲学者らを一堂に会した分野横断型の学際的会議、通称「サイバネティクス会議」の開催に漕ぎ着けます。議長はマカロック。この会議での互いに容赦・遠慮のない議論を経て鍛え上げられた理論をもとに、ウィーナーがまとめあげたのが
▼ ノーバート・ウィーナー『サイバネティックス : 動物と機械における制御と通信』(1948)
です。この本は、コルモゴロフの確率過程論、シャノンの情報理論などが普及する以前の確率推定の問題や非線形システムの表現論、情報系のエントロピー論、“ラプラスの悪魔” 問題への情報理論的アプローチなどを含む専門書で、フィードバック制御系の安定論なども含めて、後の整備され洗練された手法を使うことなく、ウィーナー自身が径なき道を突破して結論を導くことから、専門家でも辟易する代物です。個別の問題ならば、ルベーグ積分論の壁をフーリエ展開を使って自力で突破してしまうという底知れない能力をもつウィーナーのことですから、その獣道を追うのは大変なことです。
1-3 サイバネティックスの産業応用としての「オートメーション」
デカルト自身は、本当は動物だけでなく「人間も機械だ」と言いたかったのに、教会が怖くて言わなかったという説もあるようですが、18世紀フランスの医師、ド・ラ・メトリ(1709-1751)は自身の『人間機械論』において、動物が機械なら人間も機械だ、という誰もが言いたかった一言を、然したる根拠も示さずに叫び、宗教界の憎悪の嵐に沈んでいきます。
これに対して、ウィーナーの場合、理論物理学者ですら反論不可能な緻密な構成と論理で、論敵を撃破します。このウィーナー『サイバネティックス』は、メイシー会議の学際性、とくに参加者の錚々たる顔ぶれとともに、各国に伝わります。
折しも、ウラム=フォン・ノイマンのセルオートマタ理論に触発されて、フォードモーター社が近未来SF的な響きをもつ「オートメーション」なる造語を流行らせ始め、ウィーナーがサイバネティックスの観点からこの “オートメーション=サイバネティックス付き自動化” に関する講演を米国各地から依頼される事態となります。このようにして、サイバネティックスは、産業全般におけるSF的自動化のイメージとも重なって、時流に遅れまいとする政治経済界・学会・教育界を巻き込み、各国でさまざまな波紋を引き起こしていくのです。
オートメーションという言葉が陳腐化した現代から観ると、全く信じがたいことですが、このことに関連して,日本の戦後復興で活躍した理系官僚で「オートメイション」という用語を世に広めたとされる後藤誉之助(1916-1960;経済安定本部、経済審議庁、経済企画庁に在職)の言葉を紹介しましょう。
我国でも、オートメイション時代と言う言葉が流行しだした。本家本元の米国においてさえも、オートメイションという言葉は、新鮮な驚異感に一種の恐怖感を伴った雰囲気を持っている。故アインシュタイン教授は、「オートメイションは、人類最大の幸福をもたらす」と言ったそうである。オートメイションを人類の幸福をもたらす道具にするか、或は、災厄の源とするかは、二十世紀後半の人類の努力如何にかかっているであろう。オートメイションとは、オートマチック・オペレーションをつづめた新語である。この言葉はジャン・ディーボルドという若い学者或はフォード社のD・S・ハーダー副社長によって創られたといわれる。簡単にいえば、サイバネティックスの産業への応用である。従ってそれが従来のいわゆる「機械化」や「自動化」と異なる点は、本書の他の部分でくわしく説明されている通りフィード・バック(饋還)装置をもつ点にある。 (後藤誉之助「オートメイションと産業革命」、林髞、中島健蔵編『未来は始まっている:サイバネティックスの解明』、河出書房(1956);本稿《5-2》参照)
そして、それまでの機械化が人の筋肉を機械によって置換することとすれば、“オートメイション” は人間の頭脳を機械や電子管で代置することであり、
人間はボタンを押すだけでよい。あとは機械がやってくれる。 (中略) 機械が人間にかわって考えるどころではなく、人間の頭脳よりも遥かに敏速にかつ、正確に判断し手際もあざやかにやってのける
と書き進め、その応用例を米国産業について説明していきます。さらに、電子計算機の発達を見据えて、オペレーションズ・リサーチ、ゲーム理論等を取り込み、個々の生産工程だけでなく、工場全体をクルーズド・サーキットにして「飛躍的改善」を行うとともに、これに関する労資間の重要課題を解決し、オートメイション化した他国産業との競争に打ち勝つ必要がある、と気炎をあげいています。
たとえば、“機械図面を読むサイバネティックス的機械” などという概念は、当時とすれば驚異以外の何ものでもなかったわけですが、1960年代初頭には、はやくもCAD/CAM(コンピュータ援用設計/コンピュータ援用製造)という言葉が登場して、その構想を具体化した「実物」が降臨することになるのです。
このようにして、サイバネティックスは「生気論vs機械論」という哲学的議論の枠を超え、国家の存亡をかけた政治経済問題へと変貌していくのです。
2.北川敏男編『サイバネティックス : 境界領域としての考察』の概要
さて、本書
■ 北川敏男編『サイバネティックス : 境界領域としての考察』、みすず書房(1953)
のカバー袖の概要文と目次を見ておきましょう。
この議事録のもとになった討論會は、日本學術會議第4部會(理学)主催によるものです。それまでに生物學と物理學/化學の境界領域討論會を2回開催していましたが、今回は、サイバネティックスを主題とした「境界領域の問題討論會」(第1回)を上野の学士院で1952年10月に開催しました。
冒頭、挨拶に立ったのは、寺田寅彦門下の藤岡由夫。このころ、GHQによる日本占領が終わり、それを見越しての原子力の平和利用研究に関する茅/伏見提案を巡って學術会議は推進派vs非推進派に別れて大きく揺れており、関連する第4部會の副部長だった藤岡は多忙を極めていたはずで、この會の運営は全て北川敏男に委ねていました。その藤岡、当日は、当サイトでは御馴染み、伏見康治とともに會場に姿をみせます。それでは、カバー袖の概要を見ておきましょう。
近代科學の特徴の一つとして、その各部門の極端なまでの専門化を擧げても過言ではない。諸科學の綜合を必要とする領域はブランク・スペースとして取り残され勝ちである。しかしながら、かかる境界領域にこそ重要な問題は山積している。生體の諸機構に関する問題の如きもまたここに屬するものである。數學者ウィナーが「通信と制御の理論」としてのサイバネティックスを創始した動機は、生理學者との共同研究にあるという。ウィナーによれば、“サイバネティックスは自動機械及び人間の自律神經系の夫々の機能に共通な要素を見出そうとするもの”、そして,機械及び生物有機體における制御と通信の全領域に亙る理論を發展させようとするものである。それは第二次大戦を契機として具體的應用の歩を進め、諸科學と強力に結合しつつ工業技術の新しい分野を開拓しつつある。そして人造人間といわれる数々の自動制御機械と新しい管理の理論は深刻な社會問題を提起することが豫想され、その徹底した機械論は思想界に重大な波紋を起すであろう。本書を通讀することによつて讀者は極めて容易にサイバネティックスとはいかなるものかを理解し、その現代社會に對する重大な意義を認識し、また自らの分野にそれぞれの示唆を得られることと思う。
討論會の発表者はいずれもサイバネティックスと深い関係をもつ研究者で、その後、各界の大御所となる人たちばかりです。また、それぞれ、発表後の討論の記録が残されていて、これがまた面白く、また、多くの謎を含んでいます。サイバネティクスのメイシー会議やランド研究所の「殺人委員会」のような容赦ない論戦を期待する参加者もいたようですが、北川の「あとがき」によれば、
實はその席上で始めてお會いしたという方々の多いのであるから、いくらか遠慮勝ちの點もなくはない。それにしてはお互いよく率直に意見や感想を言い合い、批評し合ったものだと思う。實際當日の空氣は和やかで、實に楽しかった。この氣分の幾分なりとも本書がお傳え出来たら、編者としては幸甚に思う次第である。
とのことです。
≫当サイトの関連記事:書評記事 第1話 アベラ『ランド:世界を支配した研究所』2-3 ランドの社風と殺人委員会
- 序 藤岡由夫(日本學術會議第4部會副部長)
- サイバネティックスの構成原理 北川敏男
- 新しい機械論としてのサイバネティックス 高橋秀俊
- 生理學的調節とサイバネティックス 本川弘一
- サイバネティックスからみた非可逆性とエントロピーに關する問題 小野周
- あとがき 北川敏男
以下、登壇者毎に考察を進めていきましょう。
3.最初の登壇者:北川敏男
最初の登壇者、北川敏男(1909-1993)は、推測統計学の開拓者であり、日本の情報科学/情報学の発展と普及に深く関わってきた巨人です。 標語的に言えば、「ウィーナーのサイバネティックス」を超える「北川の情報学」を生涯を通して追求した人です。
北川は、池原止戈夫(しかお;1904-1984)とともに、ウィーナーのサイバネティックスの紹介者として有名で、今回の冒頭講演者としてはベストの人材だったと思います。この人、のちに一般向けの解説書もいろいろ書いていますが、ハードな専門書もあります。私、探訪堂の書棚にも数冊紛れ込んでいますが、共立出版の情報科学講座(全65巻)の中に、「北川敏男編」の専門書がいろいろとあります。それらの著者は北川敏男のお弟子さんか関係者だろうと思います。北川は、1930年代から、コルモゴロフやウィーナーに端を発する確率過程論に取り組み、その後、統計的品質管理、実験計画法、オペレーションズ・リサーチと研究の範囲を拡大してきました。
3-0 北川敏男『統計科学の三十年: わが師わが友』
北川敏男『統計科学の三十年: わが師わが友』、共立出版(1969)では、ウィーナーとの出会いや生涯に渉る交流について書いています。大阪帝國大學に着任した当時、数學教室にいた池原止戈夫は M.I.T. に移動した直後のウィーナーのもとで研究していたという素数論の研究者で、北川は池原を通じてウィーナーの人柄と主要論文に接しており、1935年のウィーナーの訪日には二人でサポート役となっています。なお、ウィーナー『私は数学者(邦訳:サイバネティックスはいかにして生まれたか)』には、「池原氏」が登場して、大阪大学の数学グループの話が出てきます。
■ 北川敏男『統計科学の三十年 : わが師わが友』、共立出版(1969)
■ 北川敏男『統計科学の三十年 : わが師わが友』、共立出版(1969)
3-1 北川敏男「サイバネティックスの構成原理」
さて、本書の北川敏男の講演題目は「サイバネティックスの構成原理」です。ただ、本文によれば、元は「ウィーナー空間とサイバネティックス」という話しだったとのことです。この話題、恐らくウィーナー流の確率過程論の話しだろうと思いますが、かなり専門的です(本稿《3-3》、《3-4》参照)。そのため、學術会議の藤岡由夫、官僚の後藤誉之助らとの調整の末、サイバネティックスを中心として、統計的品質管理、フィードバック制御、経営管理の数理等の話しを分かり易く要約し、喫緊の課題としてのサイバネティックス的工場システム構築の話題となったのではないかと推測します。日本の産業界にとっては衝撃的な内容で、これ以降、関連学会、関連団体、企業等でサイバネティックスの勉強会が盛んに行われることになります。驚くべきことに、21世紀の現在でも、各学会で定期的に、サイバネティックスの特集が組まれたり、サイバネティックスの研究会が学会内に組織されることがあります。如何に壮大な構想だったかということでしょう。
1 境界領域としてのサイバネティックス/2 サイバネティックスの發展段階/3 問題の提起/4 要因と確率/5 實踐の方法原理(效率と復元)/6 主體性の原理/7 結び/討論
講演では、フィードバックメカニズムの適用対象を、個々の製造工程、工場の生産管理、企業活動、行政府、社会へと拡大して考え、そのなかで「管理の問題」を考えます。そして、
(A) いかなる条件下で “管理の科學” は可能か
(B) 管理の科學一般のなかで、“サイバネティックス” を特徴づけるものは何か
を考察していきます。制御、管理、計画という概念をめぐって、N. ウィーナーのサイバネティックス、R. A. フィッシャーの統計的品質管理論、A. ワルドの統計的決定理論に議論を絞っていきます。若干の数式が登場するものの、分かり易い説明が続きます。たった、21ページの短い講演録ですが、読みごたえがあります。
討論の冒頭に立ったのは、自動制御工学の第一人者、東京大学の高橋安人(やすんど;1912-1996)です。高橋は、理系と文系が入り乱れる境界領域に成立したサイバネティックスが、技術の問題に留まらず、学問それ自体や社会、人類の問題へと展開するときのストラテジーを北川に問います。高橋は、その生涯をかけて、理論/産業応用の両面で制御工学の発展を牽引しますが、自身の生涯にわたる立ち位置を明確に示した質問です。高橋安人は第2回の講演討論會の冒頭に登壇します(乞うご期待)。
■ 北川敏男編『サイバネティックス : 境界領域としての考察』、みすず書房現代科學叢書 1(1953/5)、pp.106
3-2 北川敏男『情報学の論理』
上に述べた高橋の質問に対する北川の答えは、「分かり易い一般書を多く執筆して、この問題に挑戦する広い層を作ること」でした。これ以降、様々な人がサイバネティックスの一般向けの解説書を発表しますが、北川自身も何冊かの解説書を書いています。私、探訪堂の一押しは、
▼ 北川敏男『情報学の論理 : 制御から創造への新次元』、講談社現代新書(1969)、pp.189
です。この本、なんと、国立国会図書館/個人送信サービスで読めます。
1968年にユーゴスラビアで行われた国際会議で、6時間の持ち時間を2回にわけて講演した際、冒頭の2時間を使って話した「情報科学を構築してゆくために準備すべき基本構図」に関する私見を、一般向けに詳しく解説したのが本書とのことです。要所要所で「サイバネティックス」という言葉が登場しますから、サイバネティックスの思想から出発する北川流情報学の解説書であると理解してよさそうです。この会議には、当サイトの《書評記事 第3話 アベラ『ランド:世界を支配した研究所』》にも登場するスーパースター、動的計画法のリチャード・ベルマンも登壇したということです。ところで、サイバネティックスに現れる制御の概念といえば、第2次世界大戦以前、ベル研究所で研究された「ネガティブ・フィードバック」が有名ですが、本書では、戦後展開された最適制御、適応制御、学習制御などにも言及しています。北川は、制御工学の動向に注目しており、これらの諸概念のサイバネティックス化をも念頭においているのです。
本文は、具体例を中心とした記述から核心部へと突き進むスタイルです。例えば、第1章では 10x10 のドットマトリックス上の様々なパターンの簡単なエントロピー計算を実際にやって見せて、エルゴード性の説明へと突き進みます。第2章では、ウィーナーの確率システム論、非線形システムのウィーナー汎関数級数展開やウィーナー核の同定の “触りの部分”、具体例を使った有限オートマトンの分かり易い話しがあります。そして、「システムの論理」という本書の山場を迎えます。ウィーナーの『サイバネティックス : 動物と機械における制御と通信』で、なぜ、フィードバックだけでなく、確率過程論やエントロピーの数学が登場するのか、と疑問に思っている読者も多いかと思いますが、実はそれもサイバネティックスの本質だったことを理解できます。北川の「分かり易い」とは、こういうことだったのですね、という本です。
▼ 北川敏男『情報学の論理 : 制御から創造への新次元』、講談社現代新書(1969)
まえがき
I「情報」のなりたち
1 秩序と混沌/2 変換
II システムの構成と論理
1 システムの構成/2 情報システム/3 自己保存とシステム/4 システムの論理
III マシン
1 情報システムと人間/2 主体の働きかけ/3 実践の構え/4 マシンの論理
IV 情報の機能
1 情報理論の新次元/2 認知論/3 指令論/4 評価論
V まとめ —— これからの情報学
1 本書の行程から/2 情報学の新しい課題
参考文献と解説
3-3 北川敏男「サイバネティックスの創建」
3-1で紹介した「サイバネティックスの構成原理」は参加者に展望を与える冒頭講演でしたから、その中では、自身の専門として深く関わったウィーナー流の確率推定論の話題にはほとんど触れていません。そこで、この方面に関心をお持ちの読者のために、共立出版の超大作、情報科学講座(全65巻)の冒頭を飾る『情報科学講座 A-1-1 情報科学への道』から
● 北川敏男「サイバネティックスの創建 : ウィーナーの歩んだ道」、『情報科学講座 A-1-1 情報科学への道』、共立出版(1966)の第1章として収録
を紹介しましょう。そうです。『情報科学講座』の冒頭巻の冒頭論説がウィーナーなんです。北川はサイバネティックスを情報科学のひとつの原型とみているのです。そして、
情報科学の発展は、将来何をもたらすか、今日の急速な発展からみれば、ウィーナーの輝かしい業績も、進歩の工程の一里塚とみられる日がすでに到来しつつあるといえよう。しかし、情報科学の将来の発展のためにも、私どもは、貴重な原型をよく検討しておくべきであろう。そこには学ぶべきものが多くあると思われる。
とした上で、ウィーナーのサイバネティックスの検討に入ります。
私、探訪堂もウィーナー『サイバネティックス : 動物と機械における制御と通信』には手こずっています。序文は非常に明快ですが、第1章以降は到る所に落とし穴が待っています。北川「サイバネティックスの創建」では、初心者が嵌まりやすい落とし穴を分かり易く指摘しています。
● 北川敏男等編『情報科学講座 A 第1第1 情報科学への道』、共立出版(1966)
● 北川敏男等編『情報科学講座 A 第1第1 情報科学への道』、共立出版(1966)の第1章です。
1.1 ウィーナー理論の基調
A. まえがき/B. ウィーナーの研究態度
1.2 確率空間の設定
A. ギブスの統計力学とルベーグ積分論/B. 関数解析/C. ブラウン運動の数学像
1.3 解析的用具
A. 一般調和解析/B. 演算子の理論
1.4 サイバネティックスへの道
A. 自動計算機の原理/B. 制御の原理/C. 情報の原理/D. サイバネティックスの命名
1.5 サイバネティックスの発展
A. パイオサイバネティックスへの道/B. 非線型現象/C. 非線型理論/D. 自己組織系の理論/E.バイオサイバネティックスの構想
1.6 サイバネティックスの将来
1.7 サイバネティックスの教えるもの
参考文献/付録 I/付録 II
3-4 加納省吾『情報科学の基礎理論』
数学者として北川敏男の統計学、北川流サイバネティックス、情報科学を受け継いだのは、加納省吾(1921-)です。ウィーナーの数学理論のうち、“時系列の外挿、内挿および平滑化の理論” と “確率論における非線形問題” について、共立出版『情報科学講座 A-5-2 確率過程論』(1966)の第2編「ウィーナーの理論(加納省吾)」のなかで詳細に解説しています。ウィーナーの非線形システム理論だけでなくシャノンの情報理論、自然言語の数学的モデルと人工頭脳の雛形のひとつであるオートマトン(数学的自動機械)に関する専門書があります。
■ 加納省吾『情報科学の基礎理論』、朝倉書店(1974)、pp.175
■ 加納省吾『情報科学の基礎理論』、朝倉書店(1974)
第1章 ウィーナー非線形理論
1.1 ブラウン運動の構成と性質
1.2 ブラウン運動についての積分
1.3 ブラウン運動の汎関数の展開
1.4 直交多項式系 ( {G_n(K_n,\omega),n=0,1,2,\cdots} ) による展開の例とその応用
1.5 拡散過程
第2章 点過程
2.1 ポアソン過程
2.2 定常点過程
2.3 再生過程
2.4 可附番マルコフ連鎖
2.5 セミマルコフ過程
第3章 情報理論
3.1 エントロピー
3.2 エントロビーの性質と情報量
3.3 チャンネルとチャンネル容量
3.4 符号化と復号
3.5 記憶をもたない離散チャンネルのコードの存在定理
3.6 記憶をもつ離散チャンネルのコードの存在定理
3.7 離散時間の記憶をもたない連続チャンネル
第4章 言語とオートマトン
4.1 言語と文法
4.2 オートマトン
4.3 言語とオートマトンとの関係
4.4 確率言語と確率オートマトン
参考書
索引
4.二人目の登壇者:高橋秀俊
高橋秀俊(1915-1985)はパラメトロンを使った計算機の開発に研究室を揚げて取り組んだ物理学者で、早くから、ウィーナーのサイバネティックスに注目したロゲルギストのひとりです。自身の研究室の大学院生であった後藤英一(1931-2005)のパラメトロン素子の発明を契機として、演算装置、命令セット、計算アルゴリズム、マンマシンインターフェース、記憶装置、これらをひとつひとつ手作りで組み立てて、1958年にPC-1という計算機を完成させます。このように、高橋秀俊のサイバネティックスは、実際に、様々な階梯のサイバネティックス的自動機械を作りあげることだったようです。1950年代の高橋秀俊の解説文には、論理的な考察から、解決課題をつぎつぎに突破していく躍動感にあふれています。
4-1 高橋秀俊「機械人間」
高橋秀俊はサイバネティックスの概念から導かれる自動機械について、具体的に紹介する文章を1951年に発表しています。弘文堂版『現代自然科學講座』の第3巻に収録されている、高橋秀俊「機械人間」です。この「境界問題の問題討論會」の会場にも姿をみせた伏見康治が編集者のひとりとなっています。機械人間はロボットの意味で使われていて、具体的に、自動電話交換機に必要とされる機能として、論理的操作、記憶、探索機能、時限(タイマー連動)機能をあげています。それを実現するための二進法を使った電子計算機の基本構造を説明し、それにフィードバックメカニズムを組み込んで、将来的には、書籍を音声化するといったオフィス・ワークなども機械人間の活躍舞台になるのでは、とサイバネティックス的マシンの将来像を語っています。
▼ 朝永振一郎・伏見康治編『現代自然科學講座第3巻』、弘文堂(1951)
▼ 朝永振一郎・伏見康治編『現代自然科學講座第3巻』、弘文堂(1951)
弘文堂の『現代自然科學講座』(全12巻)は1951年から1953年にかけて出版された書籍で、各巻4名ほどの著名な研究者が自身の研究分野について30ページほどで紹介しています。現在、国立国会図書館/個人送信サービスで全巻を閲覧できます。
4-2 高橋秀俊「新しい機械論としてのサイバネティックス」
さて、この「境界領域の問題討論會」の二番手として登場した高橋秀俊は、工業技術と自動制御についての概要を語ります。この人、専門は物理学ですが、工学的な自動化にも造詣が深いのです。座長はあの高橋安人。丁寧に語るあまり時間制限が迫り、最後の最後に表題に関するコメントとして、
腦に關係した活動に關しては一つの計算機と考えて差し支えない、そういうことをウィーナーも暗示しております
という解釈を示して、創造的な活動をするサイバネティックス的機械が原理的にはできると主張して話題提供を終えます。討論では、伏見康治が早速、この見解の根拠を糺し、これに喜安善市や岡林勳なども参戦して、討論會は大変な盛り上がりをみせます。
1 序言/2 機械のはたらきと動物のはたらき/3 フィード・バックと自動調節/4 現代工業技術と自動制御/5 自動制御の理論/6 電氣工學におけるフィード・バックの應用/7 動物及び機械における量子化/8 サイバネティックスと新しい機械論/討論
■ 北川敏男編『サイバネティックス : 境界領域としての考察』、みすず書房現代科學叢書 1(1953/5)、pp.106
4-3 高橋秀俊編著『パラメトロン計算機』
サイバネティックス的マシンの頭脳の実現を夢見ていた高橋ですが、この討論會の半年後、研究室の院生、後藤英一がパラメトロン素子を発明します(特許出願は1954年5月)。これを契機にこのパラメトロン素子を使ったコンピュータの開発は一気に前進します。本格的な試作機PC-1(1958)は4200個、PC-2(1960)は13000個のパラメトロン素子を使っていました。その間、電気通信研究所(電電公社)、国際電電、富士通の共同開発によるFACOM201(1960)のほか、日立製作所、日本電気、沖電気、富士通、三菱電機なども1960年までに製品化を終えます。そのパラメトロン素子を使った計算機開発にかかわった東京大学高橋秀俊研究室のメンバーによるパラメトロン計算機のバイブルです。第1章では高橋が概要を示していますが、第2章を素子の発明者である後藤英一、第3章を天才プログラマーの和田英一(1931-)、第4章を試作1号機PC-1の稼働初日を体験した中川圭介が担当しています。
▶ 高橋秀俊編著『パラメトロン計算機』、岩波書店(1968)
まえがき
第1章 概説
1 プロローグ/2 パラメトロンの誕生/3 パラメトロン装置の試作/4 記憶装置の開発/5 PC‐1/6 PC‐2/7 プログラミングの研究/8 パラメトロン計算機の現状と将来
第II章 パラメトロンおよびパラメトロン回路
1 パラメトロンの原理/2 パラメトロンの結合法/3 パラメトロンの特性/4 分岐数,孫分岐数/5 パラメトロンの励振法/6 入出力回路/7 2周波法磁心記憶装置/8 自己訂正符号を利用するアドレス選択方式/9 金属磁性薄膜のパラメトロン計算機への応用
第III章 命令の構成
1 設計の根本方針/2 命令語/3 数値語の構成/4 数値演算の命令/5 数値演算の命令(つづき)/6 論理演算の命令/7 制御命令/8 入出力/9 その他の命令
第IV章 制御の方式
1 制御方式/2 入出力装置/3 磁気テープ/4 割込み
第V章 論理設計
1 パラメトロン論理回路/2 主制御回路/3 演算回路/4 修正設計
付録 命令一覧表/索引
▶ 高橋秀俊編著『パラメトロン計算機』、岩波書店(1968)
5.三人目の登壇者:本川弘一
三番手の本川弘一(1903-1971)は、脳波研究のパイオニアとして知られる脳生理学者です。『脳波』南条書店(1947)、『電気生理学』岩波全書(1952)、『大脳生理学』中山書店(1964)などの著書があります。なかでも、『大脳生理学』は圧巻です(これらは、いずれも国立国会図書館/個人送信サービスで閲覧できます)。
5-1 本川弘一「生理學的調節とサイバネティックス」
さて、今回の「境界領域の問題討論會」の議事録、本川弘一「生理學的調節とサイバネティックス」は生理学に現れるサイバネティックス的現象の分かり易い報告です。ウィーナーは神経系の研究を大脳気象学と称しましたが、本川は、個々の実験的検証を経て把握された膨大な知見の中からフィードバック機構で理解できる現象を切り取っています。前半は、心房細動のメカニズムなど、人体器官の動的挙動の話しが中心です。後半は、計算機と神経系に関連した話しで、記憶の物理化学的、あるいは生理学的痕跡に関する実験的説明もあり読みごたえがあります。討論では、質問者が明示されていない箇所が多く残念でしたが、高橋秀俊と本川の脳細胞の個数(数百億)を巡るやり取りなどを読むと、この時期、高橋秀俊は本気で「脳」のサイバネティックス実現を考えていたようです。雲の上から地上の様子をうかがう高橋、雲の下の地面を掘り進む本川の議論のすれ違いが印象的です。
■ 北川敏男編『サイバネティックス : 境界領域としての考察』、みすず書房現代科學叢書 1(1953/5)、pp.106
1 序言/2 フィード・バックと生理的振動/3 小脳の障碍と企圖震顫/4 脳波とフィード・バック/5 心臓障碍とサイバネティックス/6 計算機と神脛系/7 記憶と條件づけ/8 人工記憶/9 記憶と精神病/10 記憶と生理的痕跡/討論
5-2 本川弘一「脳波とサイバネティックス」
編集者の林髞(はやしたかし;1897-1969)は大脳生理学者で、作家としての筆名は木々高太郎。その林髞とフランス文学者、中島健蔵(1903-1979)の編集によるこの分野の論客によるサイバネティックス論
▼ 林髞、中島健蔵編『未来は始まっている : サイバネティックスの解明』、河出書房(1956)
です。本稿の序論《1-3》で取り上げた官僚、後藤誉之助「オートメイションと産業革命」の他、池原止戈夫「ウィーナー博士の歩んだ道」もあり、最後の対談には森本哲郎も参加しています。
本川弘一「脳波をサイバネティックス」は、サイバネティックスの重要なターゲットは大脳機能の解明であり、大脳にはワンマンが存在しないこと、脳波は何を伝えているのか、あるいは、意識を失うことと動的記憶を失うことの関係など、興味深い話しが語られます。
▼ 林髞、中島健蔵編『未来は始まっている : サイバネティックスの解明』、河出書房(1956)
第一章 機能
サイバネティックスとは何か(林髞)
「人工頭脳」電子計算機 (山下英男)
脳波とサイバネティックス (本川弘一)
サイバネティックスと情報理論 (国沢清典)
オートメイションと産業革命 (後藤誉之助)
第二章 影響
思想としてのサイバネティックス (林髞)
サイバネティックスと文化 (中島健蔵)
サイバネティックスと社会 (荒正人)
サイバネティックスの形而上学的省察 (山崎正一)
第三章 展望
ウィーナー博士の歩んだ道 (池原止戈夫)
座談会(思考する機械) サイバネティックスをめぐって
司会 荒正人; 大野晋 宮城音彌 青井和夫 森本哲郎 岡山隆
6.最後の登壇者:小野周
1952年10月に上野の学士院で開催された「境界領域の問題討論會」、最後は、物理学者、統計熱力学の小野周(しゅう;1918-1995)。伏見康治(1909-2008)、久保亮五(1920-1995)とともに日本の統計物理学を牽引してきた大御所。演目は
▼ 小野周「サイバネティックスからみた非可逆性とエントロピーに關する問題」
で、座長は伏見康治。冒頭で、
本日は伏見先生がおっしゃいましたように、サイバネティックスの立場から非可逆性とエントロピーの問題について少し考えて見たいと思います。
と、座長挨拶の一部を紹介しています。
6-1 小野周「サイバネティックスからみた非可逆性とエントロピーに關する問題」
講演の目的は二つ。ひとつは、サイバネティックスが動物・機械間の通信の問題を扱っていることから、両者間の情報/通信の量の問題を論じること、ふたつめは生気論と機械論の問題を再考すること。伏見康治の盟友、渡辺慧の影を感じる話しですね。ベルクソンの時間論、ボルツマンとギブスのH定理(エータ定理)の比較を経由して、マックスウェルの悪魔の話に進みます。気体系ではなく、電気系(コンデンサ=抵抗直列回路、つまりローパスフィルタ)で電気的な悪魔を作り出すところがおもしろい。この件に関するレオン・ブリルアン(1989-1969)の論文に疑問を呈しています。ブリルアンと言えば『科学と情報理論』で論争を巻き起こしたフランスの物理学者ですね。講演の後の討論が面白いです。冒頭に立ったのは、物理学者で物理的測定論のエキスパート、蒲生秀也(1924-2006)。この人、サイバネティックスに関する分かり易い著書があります。独特の視点から書かれた制御理論の教科書もあります。その質問では、ブリルアン説である
(ネガティブエントロピー)=(インフォメーション)説
に疑問を呈するという点で小野と見解が一致。続いて、ロゲルギストの高橋秀俊、電気通信研究所の茅野健が参入して、討論は結構な盛り上がりを見せます。
1 緒論/2 力學的可逆性と非可逆現象/3 H定理とエントロピー/4 通信理論におけるエントロピー/5 熱力學的非可逆性と過去未來の區別/6 フィルター,サーボ・メカニズムとベルグソンの時間/7 物理學的エントロピーと通信理論のエントロピー,マックスウエルのデモン/討論
■ 北川敏男編『サイバネティックス : 境界領域としての考察』、みすず書房現代科學叢書 1(1953/5)、pp.106
6-2 小野周ら編著『エントロピー』
熱力学の第2法則はエントロピーの法則と呼ばれて、時間の流れの正負を定める基準とも考えられています。すなわち、エネルギー的に孤立したシステムにおいては、エントロピーの増大する方向を時間の正の方向とみなす、という考え方があります。時間の矢を定めるこの法則、物理学に留まることなく、情報理論、生物学、経済学などとの関連を探るというサイバネティックス的な検討が広く行われるようになりました。そのような切り口でまとめられた本があります。小野周を筆頭、編者とする
▼ 小野、河宮、玉野井、槌田、室田編『エントロピー』、朝倉書店(1985)、pp.288
です。ニコラス・ジョージェスク=レーゲン(1906-1994)の論文の邦訳があります。ジョージェスク=レーゲンはルーマニアの数理統計学者で経済学者です。『エントロピー法則と経済過程』、みすず書房(1993;原著1971)という大作がありますが、エントロピーの法則が物質資源に適用できるという基本認識は、のちに誤りであったことが判明します。本書に収納されている論文は1977年のものですが、さて、ジョージェスク=レーゲンは何を言ったのでしょうか。私、探訪堂が面白いと思ったのは、経済学者、室田武(1945-2019)が書いた第14章「エントロピーと情報」です。シュレーディンガーの負エントロピー説を批判する一方で、シュレーディンガー自身もこの概念の奇怪さに気づいていて、『生命とは何か』の再版時に追加したノートで「余剰エントロピーの処分」という概念に置き換えていることを指摘します。その発展系である「エントロピー増加分の系外への廃棄」という物理学用語と整合する概念とブリルアンの学説を比較検討していきます。なかなか、奥が深い。
▼ 小野、河宮、玉野井、槌田、室田編『エントロピー』、朝倉書店(1985)
- 熱学とエントロピー(小野周)
1.1 熱と温度
1.2 第2種の永久機関
1.3 カルノー・サイクルとカルノーの定理
1.4 ケルビン温度とエントロピー
1.5 ギブズの関係式と開いた系
1.6 エントロピーの不可逆的生成
1.7 統計力学的エントロピーについて
1.8 理想気体 - エネルギー問題の今日的課題(室田武)
2.1 原子力への投入エネルギー問題
2.2 エントロピー理論の新展開
2.3 水力・風力と土壌のエントロピー理論
2.4 森林,鉄、石談、石油の近代史
2.5 17世紀日本の燃料問題と水土の思想 - 生命を含む系の熱学(槌田敦)
3.1 生命系とエントロピー
3.2 資源と廃物・廃熱
3.3 生命系の維持と崩壊 - 熱学系としての経済システム(河宫信郎)
4.1 基本的な問題点
4.2 農業システムの熱学的構造
4.3 同種使用価値の拡大再生産
4.4 産業革命の社会熱学的考察
4.5 工業システムの経済構造と素材的実体
4.6 近代工業技術の特質とその限界 - エントロビー的な視点からみた生物と地球(試論)(勝木渥)
5.1 はじめに一統一的自然像
5.2 エントロピー増大の法則と生物
5.3 光合成
5.4 “太陽光ネゲントロビー源”説批判
5.5 炭水化物の役割
5.6 土壌と消化管
5.7 生きている星、地球
5.8 若干の応用問題
5.9 まとめ —— 生命活動に伴う物質の循環とエントロピー廃棄 - 農業におけるエネルギー収支論 (宇田川武俊)
6.1 耕地におけるエネルギーの流れ
6.2 農業におけるエネルギーの投入と産出
6.3 農村生態系におけるエネルギーの投入と産出 - 物質も重要である(N. ジョージェスク=レーゲン〔小出厚之助 訳〕)
7.1 カルノー革命
7.2 熱力学が教えるもの
7.3 若干のきたない熱力学
7.4 物質とエネルギーの一般的ファー・マトリックス - 自立的技術体系のブロメテウス的条件 (N・ジョージェスク=レーゲン〔小出2〕)
8.1 熱力学:一つの異例な自然科学
8.2 物質も重要である
8.3 可能な技術と自立的技術体系
8.4 われわれの技術体系におけるプロメテウスたち - 自然界における形態形成とその熱力学(沢田康法)
9.1 形の種類
9.2 非平衡系であることと自己組織すること
9.3 自然界に見られる形態形成
9.4 プリゴジンたちの非平衡熱力学
9.5 エントロピー生成最大仮説に対する批判 - 非平衡統計熱力学(北原和夫)
10.1 非平衡系
10.2 保存則
10.3 局所平衡
10.4 非平衡系の時間発展 - 宇宙とエントロピー(長岡洋介)
11.1 宇宙の熱的な死
11.2 重力のエネルギー
11.3 一般相対論と宇宙
11.4 ハップルの法則一膨張学宙の発見
11.5 3K 無体放射ーービッグバンの発見
11.6 創生の宇宙
11.7 星の誕生と死
11.8 宇宙の終焉 - 統計力学的認識の有効性と限界(後滕邦夫)
12.1 問題の設定
12.2 歴史的文脈の中での統計力学的認識(1)1914年まで
12.3 歴史的文脈の中での統計力学的認識(2)1930年代以降中心に - さまさまなエントロビーとその相互関係(槌田敦・河宮信郎)
13.1 熱力学エントロピー
13.2 熱学エントロピ
13.3 ネゲントロピー
13.4 統計力学エントロピー
13.5 情報エントロピー
13.6 その他のエントロピー
付. マックスウェルの悪魔について - エントロピーと情報(室田武)
14.1 20 世紀のエントロピー問題
14.2 統計エントロピーと熱学エントロピー
14.3 「情報のエントロピー」と「所得分布のエントロピー」
14.4 負エントロピー論批判
14.5 エントロピーの廃棄について
14.6 いわゆる情報化社会における物質とニネルギー - 熱力学にどうアプローチするか —— プリゴジンとジョージェスク=レーゲン(玉野井芳郎)
索引
7.書斎の本棚/図書館の書棚から
このコーナーでは、本文に登場した本、関連書籍をさらに紹介します。
7-1 ウィーナー『サイバネティックス: 動物と機械における制御と通信』
世界を席巻したウィーナーのこの名著、特に、2章、3章は数式満載で専門家でも苦労します。初版出版当時、これがベストセラーになったというから驚きます。しかし、本稿で解明したように、近未来SF的で、怪しくも危ないイメージの新造語「オートメーション=サイバネティックス突きの自動化」が1国の経済力、国力を左右するという見解が広まったことが、その背景にあるようです。2章、3章はコルモゴロフやシャノンによる分かり易い体系に置き換えられていますが、サイバネティックス運動を支えるそれらの章の存在意義を理解するためには、米国が生んだ希有の統計物理学者、ジョサイア・ウィラード・ギブスとウィーナーの関係に留意する必要があります。この本、文庫本になっているのですね。ときどき、本屋で見かけます。
■ ウィーナー『サイバネティックス: 動物と機械における制御と通信』、岩波文庫(2011)
日本語版のまえがき
第2版への序文
第I部
序章
第1章 ニュートンの時間とベルグソンの時間
第2章 群と統計力学
第3章 時系列、情報および通言
第4章 フィードバックと振動
第5章 計算機と神経系
第6章 ゲシュタルトと普遍的概念
第7章 サイバネティックスと精神病理学
第8章 情報,言語および社会
第II部
第9章 学習する機械,増殖する機械
第10章 脳波と自己組織系
訳註/訳者あとがき/第2版への訳者あとがき/索引
7-2 ノーバート・ウィーナー『人間機械論 : 人間の人間的な利用』
■ ノーバート・ウィーナー『人間機械論 : 人間の人間的な利用』、みずす書房(2014;新装版)、pp.224
『人間機械論』という通俗的な書名がついていますが、1950年代初頭、サイバネティックスに関連して新聞・雑誌の誌面に踊ったキャッチコピーから採用したらしく、「人間=機械」でも、「人間もどきの機械の作り方」でもありません。もとのタイトルは、
▶ 人間の人間的利用: サイバネティックスと社会
(The Human Use of Human Beings: Cybernetics and Society(1950))
です。中ソなどの独裁国家やかつての帝国主義国家を念頭に、組織の支配者、権力者たちが、自分の下した命令が決して戻ってこない組織を好むことに対抗し、サイバネティックス的な社会の建設、すなわち、人々からのフィードバックを組み込み「人間が彼らの資質を十分にのばせるような世の中を作る」という願いが込められています。原著の第2版は1954年に出ていますが、初版の邦訳は同じ1954年(池原止戈夫訳)、第2版の邦訳は25年ほど遅れて、1979年に出版されました。
ウィーナー『サイバネティックス』が専門書であったのに対して、ウィーナー本人によれば、本書は、
サイバネティックスについての、もっと通俗的な概説で社会的な要素を強調したものだった。
(ノーバート・ウィーナー『サイバネティックスはいかにして生まれたか』、みすず書房(1983)、p.239)
とのことで、そのような一般向けの解説書として書かれました。
訳者まえがき
まえがき——偶然的宇宙という概念
Ⅰ 歴史におけるサイバネティックス
Ⅱ 進歩とエントロピー
Ⅲ 固定性と学習:通信行動の二つのパターン
Ⅳ 言語の仕組みと歴史
Ⅴ 通信文としての組織
Ⅵ 法律とコミュニケーション
Ⅶ コミュニケーション・機密・社会政策
Ⅷ 知識人と科学者との役割
Ⅸ 政第一次および第二次産業革命
Ⅹ ある種の通信機械とその将来
Ⅺ 言語、かく乱、通信妨害
7-3 トマス・リッド『サイバネティクス学者たち』
■ トマス・リッド『サイバネティクス全史: 人類は思考するマシンに何を夢見たのか』、作品社(2017)
新刊書店でこの本を見つけて小躍りしながらレジに向かい楽しく読んだのが、つい先日のことのよう。ところが、なんと、すでに「品切れ再版予定なし」に分類されているらしいのです。公共図書館で借りて読みましょう。トマス・リッド(1975-)といえば、大作『アクティブ・メジャーズ:情報戦争の百年秘史』、作品社(2021)で有名になりましたが、ドイツのフンボルト大学で学位をとった安全保障問題の専門家で、フランス国際関係研究所、米国のランド研究所などをめぐり歩いた人。すごい人脈をもってます。現在は、ジョンズ・ホプキンス大学の高等国際問題研究大学院(SAIS)教授。本書は、サイバネティクスを「人間とマシンを統合する理論」ととらえて、ウィーナー以後、「ユートピアの希望とディストピアの不安にたえず揺れ動いてきた」サイバネティクスの歴史として、サイバー化、サイボーグ、サイバー文化、サイバーパンク、サイバースペース、サイバー戦争といった概念の展開の歴史を多数の写真とともにたどります。