◉ 寺田寅彦が夢見た “物理学と生命科学/精神科学の統合”、この夢に物理学と情報科学の視点から迫った門下生がいました。ド・ブロイ、ボーアらの薫陶を受けた日本理論物理学界の貴公子、渡辺慧です。渡辺はウィーナー『サイバネティクス』の目的論的機械論を超える難解な “自由意志の数学的理論” の雛形を後世に残しました。その一般向けの解説書『生命と自由』は、渡辺の理論が読み解かれる日を静かに待っているのです。
寺田寅彦の高弟、渡辺慧の古典的名著『生命と自由』を、渡辺が残した専門書『時間と人間』とともに読み解きます。
1 物語のはじまり
▼ 渡辺慧『生命と自由』、岩波新書(黄版 122)(1980)
国立国会図書館の個人送信サービスを使ってネットで読めます(下記 《5-1》参照)
初夏のある日、久しぶりに大学生協書籍部をのぞくと、ヒラ台に、本書『生命と自由』が積み上げられていた。黄表紙の岩波新書新刊、著者は理論物理学者の渡辺慧。情報科学分野における先駆的研究でも知られ、同じ岩波新書の著書『パタン認識』を読んだばかり。これは読まねばと、そそくさと会計を済ませ解読にかかった。
あれから幾星霜。
しかし、未だ、私はこの200ページにも満たない『生命と自由』の掌の上にいる。
私、探訪堂にとって、人工知能研究の草分けといえば、何といってもハーバート・A・サイモンである。21世紀の現代、それを石器時代の遺物などと評する研究者もいるが、1950年代の “一般問題解決器” から始まる一連の深い研究は、まさに驚愕そのもの。その想いは今も変わらない。一方、本書『生命と自由』に取り組んで判ったことは、渡辺慧は、サイモンとは全く別の観点から人の知性の本質を探求しており、ひょっとすると、エントロピー増大系としての物理系と、エントロピー減少系としての情報系という対比のもとで、人工知能を超えて “人工実存” の可能性に迫っていたのではないか。果たして、情報処理過程は如何にすればエントロピー減少系を内に宿すのか。本書の周辺に難解な専門書を書き連ねて、渡辺慧は何を伝えようとしたのか。
1-1 渡辺慧の渡欧
渡辺慧(1910-1993)は東京帝大理学部物理学科を卒業した1933年、仏政府給費留学生として渡欧、量子力学の巨人、
- ルイ・ド・ブロイ(1892-1987)
- ヴェルナー・ハイゼンベルク(1901-1976)
- ニールス・ボーア(1885-1962)
らの薫陶を受けている。
右のイラストは、高田保『二つの椅子:高田保対談集』、朝日新聞社(1950)の「9 渡辺慧」の扉、左の写真は、渡辺慧『知るということ:認識学序説』、ちくま文芸文庫版(2011)のカバーそでの著者紹介記事から引用。
その5年前の1927年、ハイゼンベルクは不確定性原理を世に問うた。この原理は、量子的なミクロの世界では、古典的な物理学の世界像を基礎付ける “因果律” が破綻することをほのめかしていた(本稿 《註1》参照)。そのため、本来、数式を介して交わされるべき物理学の専門的な議論の枠を楽々と飛び越え、生物学界、哲学界、宗教界などを巻き込む “自由意志” の論争に火をつけることになったのである。このことについて、本書では
あらゆる系は量子論にもとづく非決定性があります。このことは、一九三〇年頃から物理学者は言っていることですがなぜか哲学者は、情動的に敵視しております。とくに、エディントンがあまり威勢よく、意志の自由の問題はこれで解決したというふうに書いたせいもあると思います。 (本書 p.185)
と記している。
エディントン(1882-1944)は恒星の内部構造論の先駆者であり、チャンドラセカール(1910-1995)のブラックホール理論を葬った宇宙論の重鎮。渡辺はさらに、量子論と自由意志に対する “物理学的見解” に、哲学者が反対する論拠を三つあげて考察を続けるが、ここで、これ以上の深入りは避けておこう。
1-2 寺田寅彦の夢
渡辺は大学在学中、夏目漱石『吾輩は猫である』の物理学者 “水島寒月”、『三四郎』の “野々宮宗八” のモデル、寺田寅彦(1878-1935)の門下生でもあった。寺田は物質の科学としての物理学と生命・精神の科学としての生物学、遺伝学、心理学の統合を夢見ていた(寺田寅彦『春六題』など;本稿《5-5》参照)。この寺田の問題意識は、渡辺においては、物質の科学と情報の科学の統合として、実を結んでゆく。その集大成が本書『生命と自由』である。情報科学に対する渡辺の立場は明快で、本書では第4章「化学系としての生命」のなかで
情報という概念なしには生命を理解できないということを教えてくれたという意味では、分子遺伝学の功績は大したものです。ところで、情報というのは何かといえば、これは物理化学的な概念ではありません。基礎的な物理化学にはそんな概念はありません。ですから、分子遺伝学は、むしろ、概念的にも、法則的にも、還元論の不可能を教えてくれるものと評価すべきであります。(p.156)
と述べている(還元論については《註2》参照)。
1-3 パラメトロンの高橋秀俊
渡辺は、1950年頃から、情報科学分野でも多くの著書を残しているが、渡辺以外にも、情報科学の黎明期に活躍した物理学者は数多い。欧米では核分裂反応の詳細な計算機シミュレーション実行の必要性からジョン・フォン・ノイマン(1903-1957)らが参入しているし、日本にはパラメトロンの高橋秀俊(1915-1985)や後藤英一(1931-2005)がいる。
少し、脱線。
森本哲郎『神々の時代 ——1950年代の社会学的風景』(角川文庫;1979年)の「第二章 機械」の冒頭には、若き日の高橋秀俊教授と院生、後藤英一が登場する。我らのヒーロー、森本哲郎(1925 - 2014)が没して10年の歳月が流れ、この本『神々の時代』も“品切れ再販予定なし”である(本書は、国立国会図書館デジタルコレクションで読めます;下記記事 《5-4》参照)。半世紀以上経った2014年、理化学研究所から「超電導回路を用いてパラメトロンを実現、量子ビットの読み出しに成功」という記事が出て、びっくりした記憶がある。量子コンピュータとしてのパラメトロン “復活” を願い、『神々の時代』から、少し引用しておこう。豆ランプ、穿孔テープなどが1950年代を感じさせる。後藤は、たとえば記号 t128r について「演算部の数字を記憶部分の一二八番地へしまえ、ということなんです」と森本に説明している。
機械は一応組立を終わって、少しずつ動き出していた。絶え間なく豆ランプが点滅して、得体の知れぬ記号を正確に読み、計算し、答えを出している。その記号を解さぬ者にとっては、この機械はなんとも異様な感じを与える。事実、私には、この機械がまるで怪しい祭壇のように見えた。ガランとした夕暮れの研究室。その片隅でひっきりなしに点滅する豆ランプ、その化け物のような人工頭脳に穿孔テープを供えているひょろ長い教授。(森本哲郎『神々の時代』p.31)
2 内容紹介
さて、本書『生命と自由』を簡単に紹介しよう。
渡辺慧『生命と自由』、岩波新書(黄版)122、pp.198+6(1980)
第一章 「もの」としての生命、「こと」としての生命
大我と無我(バラモン教と仏教)/蘇りとしての生命(キリスト教)/精神としての生命(プラトンとアリストテレス)/エンテレヒーとしての生命(ドリーシュ)/「もの」の「こと」への還元
第二章 存在の基底としての生命
意志としての生命(ショーペンハウアー)/純粋持続としての生命(ベルクソン)/無意識としての生命(唯識説、ハルトマン、フロイト、ユンク)/パンサイキズム
第三章 機械としての生命
人間ロボット論/「光と生命」とその後(ボーア、シュレーディンガー、エルザッサー)/サイバネティクス系としての生命(ヴィーナー)/散逸系と協働現象(グランスドルフ、プリゴジン、ハーケン)/還元論
第四章 化学系としての生命
エネルギーとエントロピー/化学エンジンとしての生命/光合成/ATPの製造と消費/情報としての生命(分子遺伝学)
第五章 自由追求として生命
生命とは何か/自由とは何か/物理系における非決定性と逆因果性/精神性と目的論の部分的復権
索引
2-1 渡辺慧からのメッセージ
本書は、1978年と1979年に行われた上智大学・生命科学研究所の大学院生向け講義をもとに、書きおろされた。受講する学生の出身学科が多岐に渉るため、高校生以上の予備知識を前提としない。冒頭のはしがきには、本書のメッセージが
生命は自由の追求である
である旨、明記されており、「だいぶ野心的な論説」を含むため、
学者先生達の大多数が私に賛成して下さるのには半世紀以上かかるでしょう。あるいは結局未来永劫だれも賛成して下さらないかもしれません
と断っている。深遠なメッセージである。自由意志の問題は自然科学の分野でも関心を持たれていて、超一流の学者による著作も多いが、『生命と自由』はどうであろうか。
全五章構成の最初の二章は宗教・哲学からみた生命観をまとめたものであり、取り上げる話題は夫人、渡辺ドロテア・ダウアーの専門分野と重なる部分が多い。第三章は物理学、第四章は化学からみた生命観をまとめている。渡辺慧自身の長年の思索は第五章に要約されている。それまでの四章においても、渡辺自身の “私見” が要所要所で披露されるが、それらは、この第五章の立場からのものであったことが伺える。
2-2 第一章 「もの」としての生命、「こと」としての生命
第一章では、宗教的生命観について、
自然科学などのはじまるずっと前から、人間は宗教的直感を通じて、生命の本質に関する、重要な点をすでに洞察していた
と要約したあと、アリストテレスによる生命の目的論的行動の特徴づけである四因説(目的因、質量因、作用因、形相因)が語られる。この四因説は最終章で再登場する。
生命を「もの」とみる見方を 機械論、一方、機械論では説明できない「神秘的ななにものか」を生命は備える、とする考え方を 生気論 とよぶ。生気論は、19世紀後半、生物学者、ドリーシュによって「新生気論」として復活する。しかし、デカルト、カント以後の哲学では、自然現象のなかに何らかの「目的」をみることはご法度である。近現代の 合理的思考 では、すべてを因果的に説明することが求められ、生気論は異端視される。デカルトと言えば、「我想う、故に我在り」で有名だが、サイバネティクスのウィーナーが「私には意識がない」と、冗談半分に渡辺に語ったというエピソードは第三章で紹介される。
2-3 第二章 存在の基底としての生命
第二章で、大きな影響力をもつふたりの生気論者を登場させる。「意志としての生命」のショーペンハウアー(1788 - 1860、本稿 《註3》 参照)と、「純粋持続」のベルクソン(1859 - 1941)である。ベルクソン『創造的進化』では、カルノーやクラジウスの熱力学も議論されるが、ここでは、その中から
生命には、物質が下りていく坂を登ろうとする努力がみられる
という有名な言葉を紹介し、ベルクソンは、エントロピー概念(本稿 《註4》 参照)を正しく理解した上でこの言葉を残した、と結論づける。
ところで、森本哲郎が、その著書で、頻りに「読め、読め」と奨めるので、本格的哲学書、カント『純粋理性批判』などに挑戦したことがあるが、「理性」の定義にすら、たどり着けず挫折。一方、直感を否定しないフランス流のベルクソン哲学は、読んでいて楽しかった。不思議である。たとえば、“無” を経なければ “存在” に行きつけないとし、自ら、無になるべく、努力する(『創造的進化』、真方敬道訳、岩波文庫、pp.323-351)。そして、
私はいま眼をとじ耳をふさぎ、外界からくる感覚をひとつびとつ消そうとしている。それがうまく出来たとする。私の知覚はことごとく消えさり、物的宇宙は私にたいし沈黙と夜の淵にしずむ。そのあいだにも私は存続し、存続しないわけにはゆかぬ。この私はりっぱに存在して、身体の周辺部や内部からくる有機感覚をもち、過去の知覚が私にのこした記憶をもち、いま自分のまわりに作りだした空虚についての明らかに積極的な充実した印象までももっている。それらのものをどうしたらことごとく排除しうるか。どうやってこの自分を消去するか。 (『創造的進化』、p.327)
と、無に成りきれぬ体験を記す。惜しい。実に惜しい。座禅修業は、眼を明け耳を澄ませるのが、ここ数千年来の作法である。ただ、ベルクソンが傑出した禅僧にならなかったおかげで、我々は、今、こうして『創造的進化』を読める。ありがたいことである。
2-4 第三章 機械としての生命、第四章 化学系としての生命
第三章、第四章には、一転、科学者たちが登場する。
寺田寅彦の時代においても「機械は思考できるか」という議論は存在していたが、20世紀に入ると異分野からの参入が相次ぐ。それらの新規参入組から、情報機械、人間機械論、サイバネティクスなどが登場する。相補性原理のニールス・ボーアは、実は分子生物学的な機械論の教祖として扱われているという話しが紹介される。1932年の夏、コペンハーゲンでボーアが行った講演『光と生命』(のちに出版される)は各界に様々な波紋を引き起こしたが、この講演を聞いて、衝撃を受けた若き物理学者デュルブリック(1969年ノーベル生理学・医学賞)は、分子生物学を建設するべく、自らの専門分野を生物学に切り替えたのである。
続いて、藤原咲平の渦巻理論、シュレーディンガーのネゲントロピー(本稿 《註5》 参照)、サイバネティクス的マシン(本稿 《註6》 参照)、プリゴジンの散逸構造論など、物理学的生命論が議論される。第四章では熱力学に関するやや専門的な議論が続くが、著者のねらいは、エントロピー減少過程を内に含む「共役化学変化」の紹介である。この第四章は圧巻である。
2-5 第五章 自由追求として生命
第五章、これまでの議論を踏まえた上で、著者独自の見解が語られる。
「生命とは何か」という問いに答えるとはいかなることか、さらに「自由とは何か」が議論され、両者を特徴づける四つの項目のそれぞれが互いに一致することを示して、「生命は自由という価値の追求である」という結論を物理学・情報科学の観点から導く。
3 渡辺慧『時間と人間』から『生命と自由』第五章を読み解く
さて、本書の多くの議論は専門的なつぎの3冊の著作
- 渡辺慧・渡辺ドロテア『時間と人間』中央公論社自然新書(1979)
- 渡辺慧『時』河出書房新社(1974)
- 渡辺慧『時間の歴史』東京図書(1973)
に基づいて書かれている。
ドロテアとの共著『時間と人間』には、『生命と自由』第五章最終節を読み解くうえで、鍵となる図がある。残念ながら『生命と自由』には掲載されていないから、それをつぎに引用し、若干の拙い解説文を添えて本稿を終えることにしよう(『時間と人間』は国立国会図書館デジタルコレクションにてオンラインで読めます:下記記事《5-2》参照)。
アリストテレスの四因説に従って、四隅に目的因(a:意図された目的)、始動因(b:行動の決定)、質料因(c:初期状態)、形相因(d:終期状態)を左回りに配置しておく。
下段、右に向かう順時間方向の矢印は、力学的な因果性を表し、原因と結果の物理的な連鎖を形成する。物理法則によって未来を見れば「予言」であり、過去を見れば「遡言」となる。
上段の逆時間方向の矢印は、渡辺が「逆因果性」とよぶもので、各人の価値体系に基づく目的と手段の連鎖を形成する。「価値体系」は “精神” の存在を予想させるものであり、個々の価値は人を未来から引っ張る。これを渡辺は「索引性(手づるを引くの意)」とよぶ。
右側の「?」付きの等号は、実際の結果が意図した目的と合致する場合もあれば、合致しない場合もあることを示す。合致すれば成功、そうでなければ失敗である。
左側の下向き矢印は、初期状態の選択を可能とする「自由の要請」を表し、我々が負うべき宿命である、と同時に、『生命と自由』の結論、「生命は自由という価値の追求である」を端的に表現する。
なお、『生命と自由』は
現代の哲学者たちはまだ、目的論恐怖症から癒えていないので、彼らの手にあえば、価値の問題でも、すべて因果的に説明しようとして、その一番大切な「索引性」を見失ってしまっています。 ... (中略)... 科学と哲学が、古い伝統に由来する因果性の束縛から開放されて、もっともっと大きな視野をおおうような新しい方向に向かって動き出すために、この小著が一つのキッカケとなれば幸いです。
と結ばれている。なお、第五章・最終盤に現れる
人間には価値があり、機械には目標がありうる
という言葉から図1を眺めると、これは人間の「図式」であり、同時に、サイバネティクス的マシン(本稿 《註6》 参照)の核心でもある。
4 簡単な註釈
一般向けとはいえ、哲学や物理学/化学の専門用語が飛び交う本書『生命と自由』。そこで、僭越ながら、若干の註釈を付け加えることにしましょう。
4-1 因果律、科学的因果性、相補性原理、不確定性原理
ヨーロッパでは、科学的因果性を主張した途端、異端として捕らえられて火あぶりにされるという時代があったわけですが、中世のこの呪縛が解かれたのち、今度は、科学的因果性の中に「目的」とか「意志」を含ませることが、ご法度となりました。では、人間の “魂” や “自由意志” を科学的に扱うことは不可能なのか、という深刻で、素朴な疑問が湧きます。しかし、未だ、解決できていません。ただし、本書『生命と自由』はその難問への挑戦なのです。
因果律は、原因と結果の間に明確な関係が成立することを示す用語である。仏教の国では因果応報などの戒めの言葉として馴染み深い。ところが、キリスト教教会が支配的であった中世ヨーロッパでは、神の意志とは関係なく自然界に因果律が存在する、という考え自体が異端であったようだ。
ところで、古典物理では、質点の運動に関してその現在の位置と速度が決まれば、次の瞬間における位置と速度が確定すると考える。これをニュートン・ラプラスの決定性原理という。微分方程式論における「解の存在と一意性の定理」に対応する。ニュートン・ラプラスの決定性原理は、上記、図1の “科学的因果性” に根拠を与える。これに対し、電子などの量子力学が対象とする素粒子では、粒子であると同時に、波でもあるというボーアの相補性原理が成り立つ。様々な状況における波束の広がりを考察すると、粒子としては、現在の位置と速度の両方を絶対的な正確さで知ることはできないことが導かれる。これが不確定性原理の中身である。ハイゼンベルクは量子的スケールを念頭において、
因果律の厳密な定式化では、誤っているのは帰結ではなく、前提なのである
と述べている(デヴィッド・C・キャシディ『不確定性 ハイゼンベルクの科学と生涯』p.239)。
追記:“質点”は古典力学の用語で、質量をもつが大きさは無視できるという理想化された概念。大きさがないので重心まわりの回転という概念をもたない。つまり、回転運動を無視できて、解くべき方程式の数が少なくてすむ。
4-2 還元論
物質のみを実在とみる立場を唯物論、精神のみを実在とみる立場を唯心論といいます。これに対して、近代厳密科学の始祖、デカルトは物質としての “身体” と「我想う我」としての “心” を独立した実在として把握しました。心身二元論です。物理学者は、“精神” を研究対象から除外する一方で、稀に、「全ては物理学に帰着する」という人に遭遇します。物理帝国主義者とよばれる困った人ですが、冷静に考えると、何でもかんでもシステムだ、と言っていた人も周りにいたような気がします。システム帝国主義ですね。
科学の対象に、物理学 > 生物学 > 心理学 > 社会学というような段階を認めること。生命という誰もが知っている概念を、物理的な概念から説明しようという試みが、生命に対する還元論である(『生命と自由』 第三章第5節参照)。
4-3 ショーペンハウアーの「物自体」
カントといえば、「アプリオリな総合的判断は如何にして可能か」などで知られます。「アプリオリ=先験的な」です。総合的判断は、主部と述部が全く独立な命題に関する判断です。生まれ出る前から備わっている総合的判断があるか、という問題にも関係していて、その代表例として、カントは数学的(論理学的)な判断をあげています。
デカルトの流れを嗣ぐプロイセンの哲学者イマヌエル・カント(1724 - 1804)は、この世において、本体(ヌーメノン)と現象(フェノメノン)を区別し、前者を「物自体」と名付けた。そして、人間の認識は現象のみに通用するのであって、物自体を論ずることに意味はないとした。カントの正嫡をもって自らを任ずるショーペンハウアーは、あろうことか、「意志こそ、物自体である」と主張したのである(『生命と自由』 第二章第1節参照)。
4-4 熱力学、エントロピー、自由エネルギー
熱力学といえば、魔法の呪文
- 日輪は光を木々に注ぎ、水流は山頂より溪に落つ
ですか。日輪SunはエントロピーのS、木々Treeは温度のT、山頂peakは圧力のp、溪Valley(たに)は体積のV、呪文を唱えつつ、これらを頂点とする図式を作り、四角の各辺を足して時計回りにE (U)、F、G、Hと記号を書き込む。これで、熱力学ポテンシャルであるエネルギーE(内部エネルギーU)、ヘルムホルツの自由エネルギーF、ギブスの自由エネルギーG、エンタルピーHの相互関係(完全微分式)を導く “ボルン図式” の完成です。それなら、エントロピーのルジャンドル変換はどうするんでしょう? 遠い昔の話で,すでに忘却の彼方です。でも、上の呪文だけは不思議と覚えています。
(左図はボルン図式、右図は似た感じのエムペドクレスの4元素図式、共に、橋爪夏樹『熱・統計力学入門』、岩波全書(1981)、p.54より)
外部から、エネルギーを供給することなく仕事し続けるマシン(第1種永久機関)があったらどれほど嬉しいだろう。ところが、これはエネルギー保存則に反する。この “第1種永久機関は実現しない” という主張を熱力学の第一法則という。それなら、外からのエネルギー供給を遮断した状態で,熱源を内蔵するマシンに仕事をさせ、それが発生する熱を熱源に再回収してマシンに繰り返し仕事をさせられないか(第2種永久機関)、と昔の人は考えた。ところが、エネルギー保存則に反していないのに、このようなマシンは実現しない。しばらく仕事をさせると、熱源の温度は低くなり、そこからは仕事をさせるためのエネルギーを取り出せない、すなわち、熱は低温物質から高温物質に自動的には移らないのである。この “第2種永久機関は実現しない”という主張が熱力学の第二法則である。ルドルフ・クラジウス(1822-1888)は、熱源から受ける熱量の増減を熱源の絶対温度で割った値を “エントロピーの増減” と定義した。すると、熱力学の第二法則は、孤立し断熱された環境下における熱的な現象では、エントロピーは増えることはあっても減ることはない、と表現し直せることを発見したのである。エントロピーの絶対値は、絶対温度を定める熱力学の第三法則の助けを借りて、絶対温度ゼロで、エントロピーゼロと定義する。ところが、このクラジウスのエントロピー、“巨視的状態量” なのに、実は測定できないのである。
気体分子運動論の立場から、自らが発見した有名なH定理を使って、物理系の取り得る状態の総数とエントロピーを結びつけたのは、ルートヴィッヒ・ボルツマン(1844-1906)である。これで、エントロピーという巨視的で摩訶不思議かつ朦朧たる雰囲気をまとった “状態量” がミクロなレベルでの系の “無秩序さ” と結びつく。さらに、時代は進む。ジョン・フォン・ノイマン(1903-1957)によって量子系のエントロピー、クロード・シャノン(1916-2001)によって情報系のエントロピーが導入される。系の無秩序さ・不確定さを掘り下げると、元のエントロピーの他に、相対エントロピー、相互エントロピーなどの概念が乱入、さらに、アンドレイ・コルモゴロフ(1903-1987)、ヤコフ・シナイ(1935-)の測度論的エントロピーなども戦列に加わり、収拾がつかないのである。エントロピーの議論は、危険が一杯。
4-5 シェレーディンガー『生命とは何か』
シュレーディンガー『生命とは何か』の有名な言葉、「生物体は負エントロピーを食べて生きている」。比喩かと思ったのですが、どうやら本気で、負エントロピーを多く含んだ食べ物を摂れば、崩壊を防げると考えていたようです。氷はいかがですか、って本当? 私、探訪堂は、
エントロピーとは朦朧たる概念もしくは観念といったものではなく、一本の棒の長さや、一つの物体の任意の点の温度や、与えられた一つの結晶の融解熱や、与えられた任意の物体の比熱などとまったく同様の、一つの測定することができる物理的な量だということです。 (シュレーディンガー『生命とは何か』、岩波新書より)
という文章にも驚愕。量子力学ではお世話になっているのですが。
シュレーディンガーは、著書『生命とは何か』において、エントロピーの符号を反転した量をネゲントロピーとよび、秩序の形成をネゲントロピーの増大と言い換えたうえで、「生物体は負エントロピーを食べて生きている」と述べた。この『生命とは何か』が発表された直後から、生命を、第二法則を適用できる断熱孤立系とみなすことには無理があり、より無難な等温等圧などの環境を考慮すべきで、その場合、第二法則ではなく「ギブスの自由エネルギーは増大しない」という法則におきかえるべき、などという “心優しい非難” が殺到した。手厳しいのは、ノーベル化学賞受賞者、ライナス・ポーリング(1901-1994)で、
熱力学に関するシュレーディンガーの議論は、たとえ通俗講演であっても堪えがたいまでにあいまいで表面的である。(中略)系のエントロピー変化について書いているときに、シュレーディンガーはその系の定義を決して行わない。系を環境といかなる相互作用もない生物体と考えているときもあれば、環境と熱平衡にある生物体のときもあったり、生物体プラス環境、つまり宇宙全体であったりもする。(C.W. キルミスター編『シュレーディンガー:人とその業績』、共立出版(1989)、「18 シュレーディンガーの化学と生物学への寄与」(L. ポーリング)より)
とのことである。シュレーディンガーは偉大すぎ、計り知れない影響力をもち、それゆえ、単なる「誤り」では済まないとか、「生物体は負エントロピーを食べて生きている」という魅力的なワンフレーズのおかげで科学的な生命理解に支障が生じたと嘆く。渡辺慧も同様の見解をもつ。エントロピー概念が生まれた後、自身の論説にエントロピーを取り込んだ思想家は数多いが、それを正しく理解したうえで「生命は物質が下る坂を逆に登る」と述べたのはベルクソンが初めてであり、日本には、藤原咲平(1884-1950)の “生命集積性の原理” (1922年)があること、“ネゲントロピーの増大” は19世紀中葉のボルツマンのエータ関数(H関数)の別名であることなどを指摘した上で、
生命現象がエントロピーの減少に深い関係があることは事実ですが、それだからといって、エントロピー減少だけから、生命という概念や生命の法則をすべて導き出すことはできないでしょう。(『生命と自由』 p.106)
と述べている。ごもっともです。
4-6 サイバネティクス的マシン
サイバネティクスの議論では、原因となる事象を入力、結果として生起する事象を出力とよびます。物理的因果律のもとでは、出力は入力が加えられてから変化します。サイバネティクス的マシンは、各時刻において、結果としての出力を、原因としての入力に加える、すなわちフィードバックすることで、因果関係を変化させるのです。
負のフィードバックループをもつサイバネティクス的マシンは、なんと、機械がそれ自身の 目標 を持ち得ることを明らかにしたという意味で本質的に重要。ネガティブ・フィードバックを発明しながら、ウィーナーが指摘するまで、15年以上、自動制御学者はこのことに気付かなかった。しかし、渡辺慧によれば、サイバネティクス的マシンは、価値体系を自ら生み出し、自身の目的を内包することはない(つまり、これだけでは機械に “魂” は入らない)。(サイバネティクスの詳細は、当サイト『理系書探訪』の「第7話 サイバネティクス」参照)。
5 国立国会図書館(NDL)個人送信サービスから
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5-1 渡辺『生命と自由』
▼ 渡辺慧『生命と自由』、岩波新書(黄版)122(1980)
本書『生命と自由』は “品切れ再販予定なし” に分類されているようで、古書価が高騰していた時期もあります。しかし、現在では、国立国会図書館の個人送信サービスで読むことができます。関係者のご助力に感謝します。
渡辺慧『生命と自由』、岩波新書(黄版)122(1980)
5-2 渡辺ら『時間と人間』
▼ 渡辺慧・渡辺ドロテア『時間と人間』、中央公論社自然選書(1979)
『生命と自由』を読み解く上で、渡辺慧・渡辺ドロテア『時間と人間』は重要な文献です。実際、この『時間と人間』の核心部、第三部「時間と自然」は150ページほどですが、その議論が『生命と自由』第五章・最終節「第4節 精神性と目的論の部分的復権」のわずか5ページほどに圧縮されているようです。この第三部は量子力学、統計力学、熱力学、情報理論の専門的な議論と数式で埋め尽くされていて、私も詳細を追いきれていません。しかし、それらの専門的議論を経て辿り着いた最終ページには
… 確率論的分布の中での揺動となり、おのおのの個別的揺動にはどんな「意味」も与えられない。しかし、おのおのの個別的行為者にとっては、選ばれた各行為は、未来の目標に付与された価値との関連において、ある実存的意味をもつ。確率論的見地はこの価値については盲目である。自由は、確率論的見地においては、決定の欠如に退化する。しかし、行為者の価値体系の光の下では、自由は積極的な様相を獲得する。 (『時間と人間』p.322)
という印象的な言葉が残されています。
渡辺慧・渡辺ドロテア『時間と人間』、中央公論社自然選書(1979)
5-3 渡辺『物理学の小道にて』
▼ 渡辺慧『物理学の小道にて』、アカデメイア・プレス(1948)
渡辺慧は欧州留学時代を含めた実体験に基づき、第一線で活躍する物理学者たちに関するエッセイを、雑誌や新聞のコラムで発表しています。つぎの『物理学の小道にて』(1948)には物理学、数学に対する自身の見解とともに、師事した物理学者たちを中心に、ハイゼンベルク、ボーア、プランク、ドウ・ブロイ、パウリ、ガモフ、湯川、ディラックらに関する投稿記事が集められています。「ディラック教授の逸話」は秀逸で、渡辺慧の快活な人柄を知ることができ、大喜びできます。「寅彦会」などでの余興、楽屋話しでしょうか。本書は、物理學の諸問題、物理學者の面影、書評、科學と制度の4部構成。個人的には、何か迷いが生じた場合には、「物理學の諸問題」に収録されている「数學的と物理學的と」に戻ることにしています。
渡辺慧『物理学の小道にて』、アカデメイア・プレス(1948)
5-4 森本『神々の時代』
▼ 森本哲郎『神々の時代: 1950年代の社会学的風景』、角川文庫(1979)、pp.374
森本哲郎(1925-2014)には数多くの著書がありますが、本書は角川文庫・森本哲郎著作集の9冊目です。『人間へのはるかな旅』、『ゆたかさへの旅』など、自身の哲学的疑問を追って世界中を旅するルポルタージュ風のノンフィクションで当時の若い世代を魅了していましたが、『神々の時代』では19の項目、神々、機械、スローガン、映像、スピード、数字などを主題として立てて考察を深めていきます。
森本哲郎『神々の時代: 1950年代の社会学的風景』、角川文庫(1979)
5-4B 森本哲郎『人間へのはるかな旅』
序でに、『人間へのはるかな旅』、『ゆたかさへの旅』も紹介しておきましょう。ただし、話しが脱線しないよう、角川文庫の内容紹介からの引用にとどめておきます。
▼ 森本哲郎『人間へのはるかな旅』、角川文庫(1977)、pp.290
人間へのはるかな旅
イラクのバグダードで耳にした不思議な日本人カリズマ氏の噂。貧民街に住み、住民たちから長老(シャイフ)と呼ばれて尊敬されていた博識のカリズマ老人とは何者か? 老人は、現代の人類が直面する問題に解決を与えるための研究を続けているらしい。そして彼は、70年代の日本がその問題が直面することを予言してバグダードを離れたという。 (中略)彼はどこにいるのだろう。その時から、著者の、カリズマ老人を捜す「人間へのはるかな旅」が始まった…… (『人間へのはるかな旅』、カバーそで内容紹介より)
森本哲郎『人間へのはるかな旅』、角川文庫(1977)
5-4C 森本哲郎『ゆたかさへの旅』
▼ 森本哲郎『ゆたかさへの旅: 日曜日・午後二時の思索』、角川文庫(1977)、pp.282
ゆたかさへの旅
日曜日の午後、西にまわる日ざしをながめて、あなたはなんとなく憂鬱になることはないだろうか。やれやれ、しようと思っていたことは山ほどあるのに、何もしないうちに休みは終わってしまう。こうしたくりかえしで人生はすぎていくのか。こんな生活に、いったい何の意味があるのだろう……。(中略) 日本は、ゆたかな社会といいながら、その大事なものを不要なものとして捨ててしまっているのではないか……。ではほんとうの「ゆたかさ」とは何だろう。ここからゆたかさを求めるインドへの旅が始まった。想像を絶する貧しきインドで、「やすらぎ」と「ゆたかさ」ははたして見つかるか。(『ゆたかさへの旅』、カバーそで内容紹介より)
森本哲郎『ゆたかさへの旅: 日曜日・午後二時の思索』、角川文庫(1977)
5-5 寺田『春六題』
▼ 寺田寅彦『春六題』、(『寺田寅彦全集 文学編 第1巻』収録 p.589)あるいは青空文庫収録
物理学者、寺田寅彦は夏目漱石(1867 - 1916)の門下生で随筆家でもありました。寺田寅彦の随筆は様々な形で残されていますが、ここでは、『寺田寅彦全集 文学編』から紹介しましょう。これは、岩波書店から昭和11年から13年にかけて出版されたもので全16巻、この全てをNDL個人送信サービスで閲覧できます。寺田寅彦の影響力は凄いですね。本文で参照した『春六題』は第1巻の p.489 にあります。青空文庫(日本電子出版協会 JEPA)でも読むことができます。
『寺田寅彦全集 文学編 第1巻』、岩波書店(1936)
寺田寅彦『春六題』、青空文庫
5-6 宇田『海に生きて』
▼ 宇田道隆『海に生きて:海洋研究者の回想』、東海大学出版会(1971)、pp.332
寺田寅彦の生命観を調べていた折りに出会った本。著者、宇田道隆(1905-1982)は海洋物理学者。戦時中は満州に出征、その後、神戸海洋気象台長に就任。1年ほどで再応招し、南方軍総司令部気象班勤務ののち、広島にて被爆。戦後、長崎海洋気象台長などを経て、東京水産大学、東海大学で教鞭をとる傍ら、様々な著作を発表し続けた寺田寅彦の門下生。本書は6部構成で、第4部「思い出の人びと」に寺田寅彦とその門下生についての詳細な回想が残されています。そこに「寅彦直伝海洋研究のしるべ」という節があり、“教科書に頼るな、自分で確実に調べて進め” などの「直伝」が惜しげもなく公開されています。目当ての「寺田寅彦の生命物理観」という節は p.204 以降にあります。これを読むと、渡辺慧の生命観が「寅彦門下の共通認識」に由来することが窺われます。このグループで、様々な話題が議論され、そのひとつ、寅彦の生命物理観の展開は渡辺に託された、、、恐らく。下の写真は、同書 p.202-3 間に挟み込まれたアルバムからの1枚で、昭和23年11月に藤岡由夫宅で行われた「寅彦会」での記念写真。前列左から、山口生知、寺田東一(寅彦長男)、阿部能成、藤原咲平、中列左から、坪井忠二、平田森三、渡辺慧、筒井俊正、金原寿郎、和達清夫、後列左から、中田金市、三宅修三、玉野光男、藤岡由夫、中谷宇吉郎、宇田道隆、田中信。学生社版『科学随筆全集』でお馴染みの寺田門下生も揃い踏みです。漱石門下は「漱石山脈」などと言われますが、その漱石の門下生、寅彦のもとに、これだけの理系人材が集まっているのですね。残念なことに、このような明治時代の息吹は、戦後のサラリーマン研究者の時代には雲散霧消してしまったようです。
宇田道隆『海に生きて:海洋研究者の回想』、東海大学出版会(1971)
6 書斎の本棚/図書館の書棚から
このコーナーでは、本文に登場した本、関連書籍をさらに紹介します。
6-1 カク『フューチャー・オブ・マインド』
■ ミチオ・カク『フューチャー・オブ・マインド』、NHK出版(2015)
超弦理論をリードする理論物理学者にして科学テレビ番組やニュース解説で大人気のパーソナリティ、ミチオ・カク(1947 -)の著書『フューチャー・オブ・マインド』は科学的見地から “心と意識” の問題を徹底的に解説・展望した名著。“意識” を三段階にレベル分けして明確に定義、さらに現在進行中の技術、ブレイン・マシン・インターフェース(BMI)を介したテレパシーや念力の実現可能性を縦横無尽に語ります。この人、未来人かもしれない。「困ったら何でもミチオ・カクに聞け」ということで、“自由意志” について、いったい彼が何を語るのか、乞うご期待。
6-2 クマール『量子革命』
■ マンジット・クマール『量子革命: アインシュタインとボーア、偉大なる頭脳の激突』、新潮文庫(2013)
波と粒子の二重性を説明するハイゼンベルクの不確定性原理とボーアの相補性原理はほぼ同時期に提唱されました。前者は、ある瞬間に電子の位置と速度を測定する場合、そこに本質的な “不正確さ” が存在することを主張するもので量子力学的に導かれました。後者は、量子力学的な手法を経由することなく “相補性概念” から不確定性原理が導けることを明らかにしたものです。これらの原理、極言すれば、物理学上の測定の不確かさに関する “単純な話し” なのです。これが “自然界において因果律は破綻しているのか” などという途轍もない議論に発展するとは。この不確定性と相補性について、その歴史的な経緯を踏まえた一般向けの解説が、クマール『量子革命』の第十章にあります。この本は、アインシュタインとボーアの交流と対決を中心とした “科学ノンフィクション” ですが、数式を使わない量子力学の解説書としても、読みごたえがあります。
6-3 キャシディ『不確定性』、パイス『ニールス・ボーアの時代』
■ デヴィッド・C・キャシディ『不確定性: ハイゼンベルクの科学と生涯』、白楊社(1998)
■ アブラハム・パイス『ニールス・ボーアの時代1: 物理学・哲学・国家』、みすず書房(2007)
■ アブラハム・パイス『ニールス・ボーアの時代2: 物理学・哲学・国家』、みすず書房(2012)
■ Abraham Pais『Niels Bohr's Times, in Physics, Philosophy, and Polity』、Oxford Univ. Press(1991)
ハイゼンベルクの評伝の中でも、キャシディ『不確定性: ハイゼンベルクの科学と生涯』は圧倒的存在感です。A5判縦書き二段組み、約660ページ、表紙を入れて42ミリの厚みです。私は、かろうじて、古書で入手しました。ボーアについては、パイス『ニールス・ボーアの時代1,2』、みすず書房(2007, 2012)があります。A5判横書き、2冊合わせて700ページを超えます。ある年の夏、私は県立図書館貸出で延長申請にて読みましたが、書斎には、格安の古書で入手した原書『Niels Bohr's Times, in Physics, Philosophy, and Polity』(海外の大学図書館の払い下げ本)をおいています。
6-4 ベルクソン『創造的進化』
■ ベルクソン『創造的進化』、ちくま学芸文庫(2015年)
渡辺慧が、多大な影響を受けたベルクソンですが、主な著作は、かろうじて新刊図書として入手できるようです。時折、行われる “リクエスト復刊” での復活も期待できます。ベルクソンといえば、「われ想う、故に時間的持続在り」の哲学者ですね。存在よりも時間を先行させる。『時間と自由』(岩波文庫)という名著もあります。しかし、ここは、何といっても『創造的進化』でしょう。機械論 vs 目的論の対立を生命進化の観点から展望しつつ、当時最新の科学的知見に基づくも、それが及ばない遥かな先を見定めようとするベルクソン哲学の到達点です。ベルクソンが『創造的進化』で指し示したフロンティアを、物理学理論と情報科学理論で切り開いていった研究が、難解な専門書、渡辺慧『時間と人間、第三部』であったのだろうと考えています。なお、本書『創造的進化』の岩波文庫版は現在 “品切れ再販予定なし” に分類されているようですが、訳者は異なるものの、ちくま学芸文庫版は販売継続中のようです。