
◉ ベストセラー旅行作家にして、科学とは無縁だったビル・ブライソンが一大奮起、3年の歳月を費やして多数の専門家を訪ね、この世界の理系的理解の全貌に挑んだ傑作です。門外漢には退屈極まりないポピュラー・サイエンスに、こんな見方があったのかと、探訪堂も驚愕の一冊。この記事では、ベストセラー『人類が知っていることすべての短い歴史』と、それを繙くための関連文献を紹介します
目次
1.ブライソン『人類が知っていることすべての短い歴史』、人類の科学が理解した世界像への探検旅行
専業の旅行作家だったころのビル・ブライソン(1951-)の作品、「失われた大陸:アメリカの小さな町を旅する(1989)」や「大国からの手紙(1998;別タイトル、僕自身もここではよそ者)」は、その昔、興味深く拝読した記憶があります(ただし、ペーパーバック版の格安原書で、独特のアメリカン・ジョークにはついていけず)。
私、探訪堂が、ブライソンに本格的に目覚めたのは、『アメリカを変えた夏 1927年』(2015)からです。1920年代といえば、ベル研究所がニュージャージーで動き始めていることもあって、ぜひ、その社会背景を知りたいと思っていたことから手に取りました。
そのビル・ブライソンが、本書『人類が知っていることすべての短い歴史』(2006)で、人類が到達した、この世界の自然科学的理解のすべてを、それに係わった研究者たちの生き様とともに、この1冊の中に書き切ることを目指したと知って、ただちに入手、夢中になって読んだものです。ブライソンが書くと、この話しが、こうなるのかという驚きに満ちています。
▶ ビル・ブライソン『人類が知っていることすべての短い歴史』、NHK出版(2006)、pp.639+38

“品切れ再版予定なし”となっていた本書ですが、上下巻に分かれて新潮文庫にて復活しました。
さて、目次を確認しておきましょう。
序章
第Ⅰ部 宇宙の道しるべ
1 宇宙の創りかた/2 ようこそ太陽系へ/3 エヴァンズ師の宇宙
第Ⅱ部地球の大きさ
4 物の測定/5 石を割る者たち/6 科学界の熾烈な争い/7 基本的基本的な物質
第Ⅲ部 新たな時代の夜明け
8 アインシュタインの宇宙/9 たくましき原子/10 鉛を取り出す/11 マーク王にクォーク三つ/12 大地は動く
第Ⅳ部 危険な惑星
13 激突!/14 足もとの炎/15 危険な美しさ
第Ⅴ部 生命の誕生
16 寂しい惑星/17 対流圏へ/18 波躍る大海原/19 生命の誕生/20 小さな世界/21 生命は続いていく/22 すべてに別れを告げて/23 存在の豊かさ/24 細胞/25 ダーウィン独自の概念/26 生命の実体
第Ⅵ部 わたしたちまでの道のり
27 氷河時代/28 謎の二足動物/29 落ち着かない類人猿/30 結び
訳者あとがき/巻末/索引/参考文献/原注
1-1 ブライソン『人類が知っていることすべての短い歴史』、その出発点を探る
著者、ビル・ブライソンは、その小学生時代、地球の内部構造全体を示した挿絵を理科の教科書に発見し、見ることのできない地下の構造をどうやって突き止めたのかと驚嘆して、帰宅すると、すぐに持ち帰った教科書を読み始めます。ところが、本文は、明快でもなく、心ときめくものでもなく、かれの素朴な疑問に答えてくれるものでもなかったのです。章末の設問コーナーに取り組むための専門用語と公式が羅列されるばかりで、かれが抱く謎は解決せず、やがてワクワク感も消え去ります。そのあきらめは、ついに科学全般に及び、
科学がこの上なく退屈なものだと信じ込んで育ち、本当はそうでないはずだとうすうす感じながらも、特に必要がないかぎり科学のことなど本気で考えなかった。長いあいだ、わたしは科学をそういう目でみていた。
という状態のまま数十年が経過します。
そんな、ある日、月明かりの太平洋を、遥か上空の飛行機の窓からぼんやりと見つめていたとき、自分が生きる宇宙や地球や自分を含めた生命のことをまるで知らない自分を見いだします。その一方で、それらの謎を追う科学者たちに思いを馳せ、その頭の働きをぜひ知りたいという衝動に駆られます。どうやら、科学者たちに占有されている謎解きの感動を、自分に、そして万人に分け与えたいと本気で思ったようです。そんな大きな課題を背負い込んで、書物にあたり、また、自身の愚鈍な質問に答えてくれそうな “聖人並みに辛抱強い専門家” を訪ねる日々が開始されます。それにしても、宇宙、地球、生命について《人類が知っていることすべて》ですから、とてつもなく広大な領域です。
1-2 ブライソン『人類が知っていることすべての短い歴史』、宇宙と地球と大地と
人類は、この世界について、いったい何を知っているのか。そのことを、著者を含めて、“科学の世界の仕打ち” にうんざりし続けた仲間たちにも分かるような言葉にまとめたい。そんなブライソンが、「第Ⅰ部 宇宙の道しるべ」で取り組むテーマは、無から始まったという宇宙、太陽系、そして超新星です。
冒頭のビッグバン宇宙論では、かなり慎重に言葉を選んでいます。そして、学者たちが常識とする概念が著者の理解を超えていても、途中で自分の問いを投げ出しません。そんな努力と粘りをみるのも本書の楽しみです。学者たちは、宇宙創造の瞬間から \( 10{}^{-43} \) 秒後(プランク時代から大統一時代へと移行する頃)の、とてつもなく小さかった宇宙で何が起こったかを推測しているという話しを語ります。そして、そもそも研究者たちは、何を根拠にビッグバン宇宙論を認めているかという疑問にもせまります。
そもそも、ビッグバン(大爆発)という言葉が悪い、と著者はいいます。宇宙が、とてつもなく小さかった時代においても宇宙は宇宙であって、いかなる存在も宇宙の果てには到達できず、宇宙の中心といえる場所はなく、「わたしたちはみんな、全宇宙の中心にいる」としながらも、その「真相は解明されていない」と結びます。石橋を叩いても渡りません。何でも知りたい、というブライソンですが、“わかったつもり” が大嫌い。学者は分かっていることと、そうでないことを峻別しますから、ここが、この話題の「知の果て」であることを理解したということでしょう。つぎは、わたしたちの「太陽系」。惑星をたどりつつ、最後は、太陽系外縁のオールトの雲に行き着きます。史上最速の宇宙船で1万年かかります。そして、われらの隣人、三重連星のアルファ・ケンタウリのひとつ、プロキシマまでは2万5千年、4.6光年の旅です。さらに、アンドロメダ銀河を越えるとき、超新星爆発という現象が深い宇宙を知る手がかりを与えます。ロバート・エヴァンスが大活躍します。
「第Ⅱ部地球の大きさ」では、狡猾を極めるロバート・フックと変人中の変人、アイザック・ニュートンとの狭間で翻弄されるエドモンド・ハレーの話しから始まります。恐竜の発見にまつわる事件として、化石ハンターたちが繰り広げた「戦争」の話しは、個別の専門文献の一番「おいしい」ところを掬い上げたもので、読みごたえがあります。「第Ⅲ部 新たな時代の夜明け」では、物理学者たちがのぞき込む原子や素粒子の極微の世界と、天文学者たちが挑む宇宙の全体像が、「第Ⅳ部 危険な惑星」では、小惑星衝突や地殻変動が語られます。普通のポピュラー・サイエンス本では見かけないエピソードが披露されます。
1-3 ブライソン『人類が知っていることすべての短い歴史』、大海原と生命と氷河期と
後半の「第Ⅴ部 生命の誕生」と「第Ⅵ部 わたしたちまでの道のり」で、いよいよ、地球上の生命誕生のなぞに迫ります。アミノ酸、DNA、タンパク質、シアノバクテリア、ミトコンドリアの誕生へと話しを進めて、地球環境、特に大気中の酸素濃度との関係を明らかにしていきますが、ブライソンの姿勢は、あくまでも「奇跡が起こった」という説明では納得しないことです。
リチャード・ドーキンス『盲目の時計職人』、リチャード・フォーティ『生命40億年全史』、スティーブン・ジェイ・グールド『ワンダフル・ライフ』などを検討しつつ、専門科泣かせの切り込みで多くの研究者との会話を楽しんでいます。そして、ホモサピエンスの登場を示唆したところで、探求の旅を終えます。18世紀を代表する探検博物学者のカール・リンネ、進化論のチャールズ・ダーウィン、遺伝学のトーマス・ハント・モーガンなども登場して、「人類が知っていることすべて」に迫っています。

2.ブライソン『人体大全』、進化の果てに獲得した奇跡のシステムを巡る
つぎに紹介するのは、ビル・ブライソンによる『人類が知っていることすべての短い歴史』の姉妹編、人体の奇跡を取り扱った作品です。今回も、相当数の医学関係者、生物学研究者に取材しています。
▶ ビル・ブライソン『人体大全: なぜ生まれ、死ぬその日まで無意識に動き続けられるのか』、新潮社(2021)、pp.497+8
本書もソフトカバー版から、文庫本へと模様替えして復活しています。
イギリスの人気俳優、ベネディクト・カンバーバッチ(1976-)といえば、2016年のディズニー映画『ドクター・ストレンジ』の天才脳神経外科医、スティーブン・ストレンジが “超はまり役”。 本書第一章は、その章扉にカンバーバッチの超精密な蝋人形写真を配置して、そのタイトルも「ベネディクト・カンパーバッチのつくりかた」。そして、そのカンバーバッチが如何なる元素から構成されていて、それらを集めると一体あたりの価格はいくらになるか、という議論が開始されます。この話し、案の定、「いくら払おうが、どれほど苦心して材料を組み立てようが、ゼロからヒトをつくることはできない」という結論に落ち着き、本書を貫くテーマ
あなたをつくる元素たちの非凡なところは、ただ一点、あなたをつくっているという事実にある。それこそが、生命の奇跡だ。
が提示されます。そうです。いよいよ、「あなたがあなたでいられる理由」を探す旅の始まりです。
3.ブライソン『アメリカを変えた夏 1927年』、アメリカ社会を凝縮したひと夏の物語
▶ ビル・ブライソン『アメリカを変えた夏 1927年』、白水社(2015)、pp.581+22
“品切れ再版予定なし” になっていた本書が、白水社現代史アーカイブスとして2024年に復活しています。
本書、ビル・ブライソン『アメリカを変えた夏 1927年』は、世界覇権への道をひた走るアメリカ合衆国史の断面を鮮やかに切り取った歴史物語です。ブライソンの本領発揮という作品で、この取材力には驚かされます。1927年5月20日から21日にかけてのチャールズ・リンドバーグ(1902-1974)による大西洋単独無着陸飛行という偉業を中心に、リンドバーグのライバルたち、ベーブ・ルース(1895-1948)、ジャック・デンプシー(1895-1983)、ヘンリー・フォード(1863-1947)、カルヴィン・クーリッジ(1872-1933)、ハーバート・フーヴァー(1874-1964)らの“ひと夏”が語られます。
大作です。単行本版では厚さが42ミリあります。全5部構成で、
- 5月 ザ・キッド(第1〜7章)
- 6月 ザ・ベーブ(第8〜13章)
- 7月 大統領(第14〜19章)
- 8月 無政府主義者たち(第20〜25章)
- 9月 夏の終わり(第26〜30章)
という内容。読後感は、戸川猪佐武『素顔の昭和』に近いものがあります。かなり詳細で、昨日の話しを聞いているような錯覚に陥ります。この詳細さは、小説でいえば、井上ひさしの傑作『東京セブンローズ』を読んだときの驚きにも匹敵します。
このあと、アメリカ近現代史沼にはまってしまい
- F.L.アレン『オンリー・イエスタデイ: 1920年代・アメリカ』、ちくま文庫(1993)
- F.L.アレン『シンス・イエスタデイ: 1930年代・アメリカ』、ちくま文庫(1998)
- デイビッド・ハルバースタム『ザ・フィフティーズ: 1950年代アメリカの光と影 1・2・3』、ちくま文庫(2015)
などを就寝前の友としましたが、ブライソンもアレンもハルバースタムも、三者三様の捨て難い味わいがあります。

4.《ネットで読める》* バナール『歴史における科学 決定版』、科学の全史を語りつくす最初にして唯一の傑作
私、探訪堂も、バートランド・ラッセル『西洋哲学史』とともに座右の書としている、バナール『歴史における科学』が、国立国会図書館の個人情報サービスで閲覧できるようになりました。国立国会図書館デジタルコレクションの個人送信サービスで閲覧できるのは、『歴史における科学』として出版された原著初版、原著第3版(決定版の表記)と、『現代史における科学』として出版された原著第2版(改訂版と表記)です。前者には分冊版も用意されています。以下では、原著第3版を取り上げますが、その第1刷(1966年)は『歴史における科学 決定版』で2,500円、私の手元にある第6刷は『歴史における科学 第3版』(1986年)となって、なんと定価8,000円でした。バブル経済絶頂期でした。
▶ バナール『歴史における科学 決定版』、みすず書房(2021)、pp.810+21+19

著者、ジョン・デスモンド・バナール(1901-1971;バーナルと訳されることも多い)は、アイルランドの実験物理学者で、専門分野はX線結晶構造解析。熱心な左翼活動家としても知られています。
30代後半、バナールは “現代社会における科学の役割” を理解しようと、科学史の研究を開始します。特に、「科学(天才)と技術(職人)」の関係に注目します。天才たちが見いだした科学的知見は技師たちによって社会に拡散し、労働者たちの生産活動を介して社会構造の変革を引き起こすと考えるわけです。そこで、
経験の諸分野が科学の領域の中に入ってくるには一定の順序があることがわかる。大ざっぱにいうと、それは数学、天文学、力学、物理学、化学、生物学、社会学と進む。技術の歴史はこれとほとんど正反対の順序をふんでいる。すなわち、社会組織、狩猟、家畜、農業、窯業、料理、衣料製作、冶金、車両と航海、建築、機械、機関である (本書 p.17-18)
という認識から出発し、さらに、「科学の起源と成長」を説明するためには、技術の変化を決定している社会的要因を知る必要があるとします。本書『歴史における科学』は、ソ連の物理学者であり科学史家でもあり、国家に対するテロ行為の罪状で銃殺刑に処されたボリス・ミハイロヴィチ・ヘッセン(1893-1936)の影響を指摘する研究者もいますが、ヘッセンの研究とはケタ違いの規模です。
本書では、自然科学だけはでなく、歴史における社会科学の役割に関する記述も散見されますが、マルクス・エンゲルスの著作のどの部分に “物理科学におけるガリレオの業績に匹敵する偉業” を見いだしたのか、納得できる説明を見いだすことはできませんでした。それはさておき、社会科学や唯物史観に関連する記述を除けば、バビロニアやエジプトに端を発する「合理的科学」の発展の様相を、人間社会の変貌の様子とともに、これ一冊で展望することができて、重宝しています。
なお、『資本論』など、 “理論整備” において先行した社会主義陣営ですが、その欠落を埋めるべく自由主義陣営が担ぎ出した「プラグマティズム」などについては、
科学から革命的なトゲを取り除き、人間の運命に少しでも重要な改善をもたらすために利用できる思想をすべて斥けて一笑に付し
と評価しています(本書 p.345)。確かに、言い得て妙です。

今は休刊となった雑誌『情報管理』(国立研究開発法人 科学技術振興機構)に掲載された論説
- 京藤倫久『科学技術と科学・技術について』、情報管理 57-3、pp.401-405(J-STAGE)
に、本書『歴史における科学』の巻末を飾る重要な表の改変版が掲載されていますので、つぎに引用しておきましょう。本書を繙く際のよき道案内となるでしょう。
